7章

第7章
同窓会の歩み

 (1)同窓会の設立

   (5)みかげ会の活動 2

 (2)会の命名

   (6)会報の復刊と名簿の作成

 (3)会則の主な改正点

   (7)同窓会年表

 (4)みかげ会の活動 1

   


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第7章 同窓会の歩み

(1)同窓会の設立

 本校の同窓会は郡立実科高等女学校時代の大正8(1919)年4月3日に発足し、同時に会則も定められた。会則はその後何度か改正され、現在に至っている。
 
 それらの会則によると、会の目的は「智徳修養の資となさん」(大正8年)、「智徳の研磨に資する」(同13年)、「国家社会の推進に寄与する」(現行)等、その年代によって内容も表現も様々であるが、いずれの時にも共通しているのは、会員の親睦と母校の発展に寄与するということである。
 
 本校卒業後、会員の進んだ道や生き方はそれぞれ異なっても、同窓生には青春の一時期を本校に集い、夢を持って学んだという共有の過去がある。第18代校長だった長須賀孝は「みかげ会報」第3号(昭和55年11月発行)に一文を寄せ、そこに「(同窓会は)年齢、年代の違いを越えて、ただ同じ学び舎で何年間かを過ごしたという事実関係が見えない絆をつくってくれて、同族ともいえる連帯感を知覚させてくれる」と記している。まさに同窓会の意義を言い尽くした内容である。
 
 会に名称がつけられ、会報が発行されるのはこうした会員間の連帯をさらに強め、親睦をいっそう深めるためである。本校の同窓会も発足から3年後の大正11年、名称がつけられることになった。

第7章 同窓会の歩み

(2)会の命名

「みかげ会」の名は大正11年につけられたとされているが、それが11年のことか、11年度の意かははっきりしない。ただ11年度は本校が県立となり、名称も茨城県立下館高等女学校となった年であり、新校舎が現在地に建てられ、年が改まった1月には完成したばかりの校舎に移転したという記念すべきことが重なった頃である。おそらく、こうした事情を背景に同窓会の命名がなされたのであろう。

 名づけたのは当時国語教師であった関時発(大正11年から同13年まで在職)であった。関は会の名を古今和歌集の

 筑波嶺の このもかのもに かげはあれど
  君のみかげに ますかげはなし

 〔筑波山のあちらにもこちらにも木陰はいくらもありますが、あなたのかげ(姿)にまさるものはありません〕
  (日本古典文学全集『古今和歌集』小学館)

に求めて名づけた。関が在職した頃、真新しい校舎が立つ高台の地から、東方に紫峰筑波が四季折々、時刻によって微妙にその色を変えながら、今よりはるかに強い印象を持って見えたはずである。関は、同窓会の名称を筑波の山に関連したものから見つけることに迷いはなかったろう。さらに女性らしい、やさしい響きと意味合いをも念頭に置いたに違いない。この歌は恋の歌であろうが、長い間主君の恩恵をたたえる歌とされていた(上記『古今和歌集』脚注による)。そのような歌から会の名が選ばれたのも時代性であったかもしれない。

 この「みかげ」を「御蔭」さらに「おかげ」の意まで発展させて考えたのだろうか、この名称について「へりくだった心をもって人に交わっていくのは、人間として、婦人として価値がある。この意味でふさわしい名」と当時の会員は記している(「みかげ会報」第1号、大正13)。

 さらに同会員は「みかげ」は「水影」の意もあるとし、昭憲皇太后の

  高山の 影をうつして 行く水の
   低きにつくを 心ともがな

の歌意にもかなうようにという思いが込められていると述べている(同会報)。そのためか、「みかげ」を「水影」の意と思っている会員も多い。「水影」の意まであるかどうかは定かではないが、『古今和歌集』からとったものであることは確かである。

 

第7章 同窓会の歩み

(3)会則の主な改正点

 同窓会が発足してから今日まで何度か会則の改正が行われた。その中で会の運営に関わる事項についてまとめてみた。

 昭和30(1955)年に会則が改正され、今日のように卒業生の手による運営となるまでは、会長には校長が就任し、副会長には首席教諭(昭和25年より教頭)が選ばれている。卒業生が女性ということもあって会の運営を学校に委ねていたのである。

 総会は「毎年春季1回之を開き」と発足時の会則にはある。昭和26年、毎年1回定時(5月第1日曜日)に開くと改正された。しかし、その後は定時に総会を開くのが難しく、夏休みに開かれるようになった。45年には役員総会をもって総会にかえると会則が改正され、以後役員総会が毎年7月上旬頃に開かれている。
 
会費の推移
 昭和18年     5円
   22年    10円
   24年   100円
   30年   500円
   42年  1000円
   45年  2000円
   53年  3000円
   58年  5000円
 平成6年  7000円
  ※昭和30年、終身会費となり、卒業時に納入することになった。
 
第7章 同窓会の歩み

(4)みかげ会の活動 1

 会の活動を大きく分けると親睦と母校への寄与ということになる。前者はクラス毎や卒業年度毎に行われる集まりであり、後者は備品購入や建物の建設に際し、その資金の一部もしくは全額を提供するというのが主なところである。

 ここでは後者を中心に終戦までを見てみよう。本校が現在地に移転して間もない大正12(1923)年、学校はピアノの世界的名品ベヒシュタインを購入することにした。そこで会でも発足して初めての大事業として、これに協力することを決定した。早速募金活動を始め、当時の会員約450名のうち125名の協力を得て、457円を集めた。在校生の父兄も募金活動をし、428名から1814円を集め、他の寄付金とこれらを合わせて購入資金の一部にした。

 また、ピアノ購入と同じ年、同窓会館建設に向けて資金の積立を始めた。昭和6(1931)年2月14日には同窓会館建設委員会を結成、募金を開始した。翌7年11月8日には、建設を開始、8年2月7日には竣工祝賀式の運びとなった。募金開始から2年で建設されたことになる。建設にあたっては積立金からの3500円と、募金等の寄付金による4500円で、建設費ばかりでなく、設備等の費用まで全額を賄うことができた。この会館は間もなく「みかげ会館」と呼ばれるようになった。

 これら以外に寄付の主なものとしては、昭和3年の奉安殿建設への資金寄付や、10年の弓道部の神宮競技会出場への応援寄付などがある。

 また災害被災者への見舞寄付もあった。大正12年の関東大震災、昭和10年の県南水害への見舞が主なところである。

 戦時中らしいところでは、「愛国機、茨城号」や海軍への献金があった。挺身隊に参加した会員にお守袋や腕章などを贈ったこともあった。挺身隊で亡くなった会員の追悼会も開いた。終戦直前の7月には、日立挺身隊戦災見舞もした。終戦までの活動を伝える記録は、これが最後のものである。

 会設立頃から終戦までの活動には、母校の歴史と同じように、作り上げていく意気込みの時代もあったが、国家の大きな流れに沿わざるを得ない不幸な時代もあったことが見えている。
第7章 同窓会の歩み

(5)みかげ会の活動 2

 平和な時代の訪れと共に会の活動も、学校との共催による芸術鑑賞や恵幸祭での作品展示、卒業生への記念品贈呈と多岐にわたるようになる。また体育祭や文化祭で売店を出し、そこでの益金を建設費用の一部に提供したり、図書寄贈の費用にあてることもあった。こうした活動のうち、まず建設や備品購入への協力ということから見ていく。

 戦後最初の協力は講堂建設のためのものである。募金活動は昭和26(1951)年5月に開始され、1779名の協力を得て、38万6350円が集まった。また、26年10月の運動会と27年2月の文化祭に出した売店での益金が7631円になった。これらの中から35万円を建設資金とし、町の人々からも多くの協力を得て、講堂は27年に完成した。

 昭和30年度も終わりに近づいた31年3月の役員会の折、第12代校長佐藤昌樹から会に対し、31年度の事業計画の1つであったピアノ購入への協力要請があった。これを受け32年7月、PTAと共同で国産のセミコンサート型のグランドピアノを購入することを決めた。この型のピアノは茨城県下で初めてという本格的なものであった。

 昭和34年の体育館建設では総工費約1556万円のうち、地元負担が約1016万円あった。そこで同窓会では33年8月、体育館建設実行委員会を結成、1口600円の募金活動を始め、翌年3月には集まった200万円を学校に寄付した。

 その後も昭和41年のプール建設、46年の永久校舎建設などで資金協力をしている。特に永久校舎建設では、多くの会員の募金協力を得ることができ、校舎設備費としての資金200万円の他に、ピアノの名品スタンウェイも寄贈した。このピアノは購入から15年後の63年、創立90周年の事業としてオーバーホールをしたが、その費用198万円も同窓会が全額負担した。
 これら以外に、学校行事で記念品を贈呈するということも行っている。毎年行われている球技会では、各学年1位のクラスに花束を、現在はフラワーアレンジメントを、平成6(1994)年から贈り続けている。これはそれまでの体育祭での花束贈呈に代わるものである。また、それぞれの時に合わせて変化はあるものの、新会員へ卒業記念品も贈り続けてきた。昭和31年度から51年度までは市内の菓子店特製の記念菓子を、52年度から平成6年度までは校章入りの手鏡を、男子の新会員が入るようになってからは黒革のペンケースをといった具合である。

 平成12年に創立100周年を迎えることを祝って、これまでの積立金から2200万円を記念事業等のために寄付した。

 こうして見てくると、母校への資金寄付が会の活動の歴史の中で大きな部分を占めることがわかる。以前は募金活動という形もとったが、昭和47年の永久校舎建設での募金活動を最後に、募金活動は全く行われていない。それには会員が女性だけのため、募金活動には困難があるという理由があげられる。そこで卒業時に納入する終身会費を、53年に3000円(現在は7000円)に増額し、寄付は積立金からということになった。これは本同窓会の大きな特徴といえる。この方法がとられるようになった背景には、建設などの際、地元負担金がなくなり全額県費になったことがある。

 母校への寄与ということを中心に活動を見てきたが、ここにあげたものはその一部にすぎない。これら以外の活動については年表で記すことにする。
第7章 同窓会の歩み

(6)会報の復刊と名簿の作成

 同窓会報である「みかげ会報」の歴史は古く、大正13(1924)年に第1号を発行、以来、昭和13(1938)年に至るまで随時に16号まで発刊されているが、会報そのものは現存していない。

 昭和27年に戦後初の同窓会名簿を発刊したのに続き、翌28年「みかげ会報」が復刊される運びとなった。この27年は本校創立50周年にあたり、式典、講堂建設といった記念事業の一環として企画されたものである。

 この復刊第1号は新聞版で、戦後の様相がまだ残る当時を反映し、会長は挨拶で「貧しい日本も中々に容易ではありませんが」「この会誌がその間にあって少しでも同窓のよしみを厚くしお互いの親しみと慰めと力となり得ることができましたらと祈る」と述べている。

 第2号は昭和32年に発行、第3号はそれから20余年を経て55年の創立80周年に発行された。この20余年の間には、プール、新校舎、恵幸会館、特別教室棟、体育館と大きな建設が続き、創立60、70周年の記念行事や記念誌の発行などもあった。みかげ会としても建設推進や寄付の募集、開催協力、資料提供などさまざまな活動を行っている。

 一方、同窓会名簿は昭和48年、58年、平成4年、11年に刊行された。本校は女性主体の学校であることから、共学や男子校に比べ追跡調査が難しい傾向にある。結婚により姓が変わる者が多い、世帯主でない場合が多い、先の名簿に勤務先の記載が少なく調査の手がかりが得られないといったことによるものである。この事情によって、平成11年度に卒業者総数2万4600余名となった名簿作成には時間がかかるようになっている。

 みかげ会の詳細な歴史については、平成11年発行の「みかげ同窓会会員名簿」に「同窓会の歩み」として掲載されている。
第7章 同窓会の歩み