第3章メニュー

第3章
翻弄される学校教育

1 強まる戦時体制の中で    
 (1)報徳寮と集団訓練

   (8)学校農場

 (2)愛国女子団加入

   (9)学校工場

 (3)保証人総会の開催と学級増

  (10)女子挺身隊

 (4)多彩な文化活動とスポーツ競技会
                 


(11)疎開

 (5)下館飛行場への勤労奉仕 

  (12)修学旅行の中止

 (6)「修身」「新日本史」の教科書



(13)戦時下下館の人間模様

 (7)皇国女性の錬成 

   
     
2 敗戦を迎えて    
 (1)終戦

   (3)寄宿舎日誌

 (2)終戦後教育転換指令綴り

   


 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(1)報徳寮と集団訓練

 本校の寄宿舎は岡芹に移転した大正12(1923)年から逐次整備され、14年には3棟が完成した。渡り廊下で結ばれた寮室の他に食堂・浴室・炊事室等があった。
 
 昭和3(1928)年度には、120名の定員中115名が入寮していたが、7年度になると入寮者は65名と半減し、11年1月には34名となった。寮としては3棟のうち南と北の2棟を使用し、その他の部屋は、桜・梅・藤・百合等と命名し、自習室として使用していた。この自習室を利用して担任と生徒が起居を共にする生活訓練が行われたのは、この11年からと思われる。
 「報徳」という言葉は当時よく使われており、寮での集団生活の中に「報徳会」の行事を取り入れたことから、この頃から寄宿舎を「報徳寮」と呼ぶようになった。11年度の「学事年報」には、「通学生を30名宛寮に収容し、感謝報恩生活体験協同和楽を方針として」と記載されている。この集団訓練は、生徒達には思い出深い行事の一つであったようである。
 
 県下の各中学校では現役軍人が配属され、厳しい軍事教練や鉄拳制裁もあったというが、本校の場合は女学校であったこともあり、報徳寮を中心とした集団訓練は和やかな雰囲気を感じさせる側面もあった。
※写真をタップしてください。背景が分かりますよ。

※報徳碑は、昭和10年に当時の校長大瀧正寛の手により、「至誠勤労(しせいきんろう)」「分度推譲(ぶんどすいじょう)」の文字が刻まれ、建立されたものです。


 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(2)愛国女子団加入

 満州への軍事進出が行き詰まりをみせるなか、昭和12(1937)年7月7日、日本は、盧溝橋での衝突に端を発し中国との全面戦争に突入、同年12月13日には南京を占領した。一方、国内では、同年10月に「国民精神総動員運動」を告諭し、各種のスローガンを掲げて国民の戦争への士気を高めようとした。翌13年には、国家総動員法が公布され、政府の統制はさらに強くなり、生活物質の配給制も始まった。 校内の動きも、このような情勢にそのまま対応し、「忠良なる臣民の育成」を基本とする教育方針に変化していった。昭和13年頃から、「学事年報」において「国体の本義」や「惟神(かんながら)の大道」などの語が目立つようになった。
 
 また、この頃本校は「愛国子女団」に入会した。この時代の要覧は昭和7年度と10年度のものしか残っていないが、10年度のものに「愛国子女団団則」が「案」として掲載されている。このことから10年頃に愛国子女団を組織したものと思われる。これは「愛国婦人会」の下部組織であり、「報徳会」からさらに一歩軍国色を強めたといえる。
 団則では、報国精神の涵養を目的にして、7つの事業を行うものとしている。その第6項に「愛国婦人会の活動に参加すること」とあったことから、「戦没者遺族慰問及び墓参」「出征軍人の送迎」「慰問袋の送付」等の社会奉仕が、学校生活にさらに多く組み込まれていくことになった。これらの活動により、卒業時に「愛国婦人会賞」を受賞する者もいたことが記録されている。
 
 また、当時盛んに行われた展覧会も、昭和13年からは「銃後の守展覧会」と銘打たれて行われるようになる。校内で当時木綿の代用品であった「スフ」の洗濯法講習会が実施されるなど、国を挙げて耐乏生活に入っていくのである。

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(3)保証人総会の開催と学級増

 この頃、本校への入学志望者は多く、志望倍率は高かった(表4)。当時、この倍率引き下げのため定員増が望まれていた。
 「学級増加に関する経過報告」によると、昭和14(1939)年1月19日、県当局より内意があり、これを受けて27日臨時保証人評議員会が開かれた。翌28日、臨時保証人総会が召集され、会費値上げ案を含む次の4項目が決議された。

 1 地元負担金5993円を校友会及び保証人会で負担すること。
 2 寄宿舎の一部を改築して新たに5教室を増築し、増加学級の用に当てること。
 3 第一学年の募集定員を200人とすること。
 4 これを14年度より実施すること。

 このようにして、本校は昭和14年4月14日の県令により正式に本科生800名定員となった。昭和10年に定員50名の補習科が設置されていたが、本科生の定員増は、県立移管以来初めてのことであった。

 先の「学級増加に関する経過報告」には、次のように書かれている。「ここに於いて本年度から年々50人の志願者が従前より救われ、学校の内外共に明朗になりました。」
 

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(4)多彩な文化活動とスポーツ競技会

 軍事色が強まる一方であったが、校内では音楽会や講演会が盛んに行われていた。これは主に校友会の学芸部が企画実施し、行事アルバムも残されている。散逸したものも多いが現存しているものによると、「第5回音楽会」としてアルトの平原寿恵子を招いたり、別に演奏会として田中富貴子のヴァイオリンを聴いたりしている。また、昭和13(1938)年4月18日には、陶芸家板谷波山(第4章「2人の芸術家との関わり」の項参照)の講話もあった。その他では村田凱一や千葉胤明などの当時の著名人も来校している。

 昭和9年、本校を会場にして「県南女子中等学校競技会」が実施された。1・2年生と3・4年生の二部に分けて行われた大会で、本校生は陸上部とバレー部が優勝、バスケット部とテニス部が2位となった。11年にも同大会は実施されたが、この大会が最後となった。

 以後、戦時中ということで対外試合としては県西ブロック程度のものしか実施されなかった。しかし、スポーツは盛んであり、特にテニスは抜群の強さを誇り、13年の記述に「他の追随を許さず」とある。

 また、教職員と生徒がラケットを譲り合って、スポーツに汗を流したことが、各記念誌で語られている(『五十周年記念誌』『六十周年記念誌』)。


 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(5)下館飛行場への勤労奉仕

 昭和14(1939)年5月、下館飛行場が大田郷に作られた。この飛行場完成のため、下館はじめ近在の青年団・在郷軍人・隣組等の勤労奉仕が強制され、滑走路の整備作業等を行った。
 
 本校に残る「教務日記抄」によると、昭和13(1938)年8月9日と10日の欄に、「全校生下館飛行場勤労奉仕・但し雨天順延」と記載されている。当時の「気象観測簿」(第4章「気象観測班の褒賞」の項参照)によると、両日とも晴で、最高気温が9日は29.5℃、10日は31℃であった。このことから下館飛行場での勤労奉仕は実施されたと思われる。本校生はどのような気持ちで、炎天下の作業に当たったのであろうか。
 
 このように、いわゆる「銃後の固め」として、また、貴重な労働力として、この勤労奉仕作業は重視されるようになっていく。後で詳述するが、昭和16年になると、1年間に30日以内の勤労奉仕が義務付けられ、その日数は授業日として認められたのである。
 本校でも、各通学団に分かれ、出征家族や遺家族の田植え、麦刈り、養蚕、清掃等に従事した。前述の「教務日記抄」によると、春の農繁期に5日、夏3日、秋2日、冬2日間「真心込めて奉仕」とあり、実際どの程度実践されたかは明らかではないが、かなりの奉仕作業が、生徒達に半ば強制されたのである。

※下館飛行場
 下館飛行場は、昭和16年(1941)年になって、宇都宮飛行学校下館分校となり、少年飛行兵訓練の基地となった。昭和19(1944)年の終わり頃には、艦載機や硫黄島を基地としたP51機が飛来し、この飛行場が目標とされ機銃掃射を受けることになる。また、翌20年には、特攻隊(相手に体当たりして自爆する特別攻撃隊)も出撃したとの嘱託軍医の言葉が『下館市史』に書かれている。
 現在は、
玉戸南交差点を南へ向かうと歩道橋があり、それ以南が旧飛行場跡地である。尚、歩道橋以南の道路が「飛行場通り」という名称で呼ばれている。

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(6)「修身」「新日本史」の教科書

 みかげ同窓会の諸姉から寄せられた資料のなかに、書き込みの入った教科書がある。当時の様相を色濃く反映しているので、いくつか紹介する。
 
 昭和13年5月25日発行、同16年10月10日訂正発行の『新修実業帝国小史』は、第1章が「皇基の宏遠」で始まる。天皇に関する記述が多く、「教育勅語の下賜」の項では、次のように書かれている。
 
 明治天皇は、御心配の余り、明治23年10月30日、「教育に関する勅語」を賜り、我が国には、昔から、「之を古今に通じて謬(あやま)らず、之を中外に施しで悖(もと)ら」ない忠孝の道のあることをお諭(さと)しになった。教育の方針は、この時に定まり、国民も、西洋崇拝の夢からさめて、国史を尊び、皇祖、皇宗の御遺訓を守り、(以下省略)
 
 また、第16章は、「国民の自覚」となっており、「国力の進展」で始まる説明は、当時の日本政府の立場の強調に終始している。「世界の大勢」では、「支那事変」は、「やむを得ず」軍を派遣したもので、南京占拠については、「支那政府は、首都南京を失い、奥地の重慶に移って、もはや、地方政権も同然となった」と述べている。この編集方法は他の日本史の教科書も同様であり、「新日本史」の巻頭の地図には、「満州国」が明示されている。
 「修身」は最も重要とされたため、校長が担当する場合が多く、教科書には「国民精神作興(さっこう)に関する詔書」を始め、各種の詔書が掲載されていた。
 
 なお、終戦後はGHQ指令により、修身・日本歴史・地理の授業は一時期停止された。

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(7)皇国女性の錬成

 昭和16(1941)年、日本はアメリカを対戦国に加え、泥沼のような終末戦争へと向かっていた。同年3月1日には、国民学校令が公布され、教科の改変が実施された。尋常小学校は国民学校と改称され、軍事教育のための青年学校(男子)を設立して義務化した。
 
 昭和18年に卒業した斉藤英子(高女21回卒)によると、「私達のクラスが最後の英語科のクラス」とあり(『六十周年記念誌』)、「英語」は、昭和16年度を最後に終戦まで廃止されたようである。また教科名も、国民科として「修身・国語・歴史・地理」があり、体育は体錬科と言い「体操・武道・教錬」からなっていた。
 体位向上も銃後を守る女性として大切な任務である。本校の校務分掌を見ると、昭和16年度から、それまでの教務・舎務・事務の3部の他に国防訓練部が設置されている。15年から16年まで1名、16年からは2名の薙刀(なぎなた)担当の職員が在職しており、「戦技訓練特に薙刀に力を入れる」等の記述もある。17年度からは、集団訓練として「教錬」が実施され、職員と生徒が互いに号令を掛け合って分列行進をした。さらに、「鍛錬」の目的で、学期毎に1回校内競技会を実施するほか、水泳訓練、早朝のマラソン錬成、寒中には寒稽古と称して、約3kmの行程となる神社仏閣を選び、毎朝順路を変えて歩き、戦勝を祈願し参拝した。強くたくましく銃後を守ることが、望まれたのである。
 その頃のことは、当時の在校生や教職員に強い印象を残さずにはおかなかった。本校では創立50周年以来、10年毎に記念誌を発行しているが、その度に当時の様子が語られている。昭和16年末、国民服と戦闘帽姿で赴任した教諭長誠も、当時を次のように回想している。
 生徒諸君はスカートなどは全く姿を消し、もんぺー色※1で、ある場合には白鉢巻で軍隊式に「頭を右」と堂々たる分列行進を行った。学校では校庭の各所に防空壕を作ったし、生徒は常に防空帽に包帯などを携行して、非常の際に備えていた。汽車通学生は駅前で隊伍を整え、強行軍で登校していた(『六十周年記念誌』)。
 このような状況下ではあったが、本校には昭和16年、新任の音楽教師が2名着任した。その一人、寺門昌平は、「2名の配属は校長の英断か」と述べた上で、「朝な夕な」※2に曲を付け、寄宿舎で生徒と共によく歌ったとしている(『六十周年記念誌』)。この頃、寄宿舎内には農人形を祭った供棚があり、寄宿生はそこに朝のお供えをし「朝な夕な」を歌い、食事をとっていたのである。これは昭和20年頃まで行われていた。(二高3回卒飯村洋子談)

※1 服装の統制 政府は服装の統制を打ち出し、男子は国民服、女子はヘチマ型の襟とした。本校でも「ネクタイの禁止」(質素奨励のため)や「もんぺ常用」を決め、非常時の心構えを強調した。

※2 徳川光圀が詠んだ歌
   朝な夕な 飯(いい)食うごとに 忘れじな
   恵まぬ民に 恵まるる身は

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(8)学校農場

 戦闘地域は際限なく拡大し、労働力は枯渇していった。日を追って日常の生活物資も欠乏していき、食料の調達にも困難を感ずるようになっていた。
 
 昭和15(1940)年、「集団作業、訓練及び増産運動の目的遂行の為に」学校内の1反歩の空き地が掘り返され、農地に変わっていった。収穫されたのは蕎麦5斗、馬鈴薯3俵だった。
 
 農地は昭和16年に2反3畝に拡大され、小麦、馬鈴薯、大豆、蕎麦、ハブ茶を栽培した。さらに翌17年には、8反にまで拡張され、甘藷、大根も作付けされている。学校の記録はこの年度で終わっているが、前出の教諭長誠は「陸稲、南瓜、とうもろこしのようなものから砂糖黍(きび)、はぶ茶、その他をつくったように覚えている。はぶ茶の実は、はぶ茶として健康に良いというので、そのころ職員室では全くお茶を廃して、はぶ茶一本槍であった」と述べている。また同じく当時の教諭であった室町敏も「職員自身も校庭の一部を借り、耕地を開墾して馬鈴薯、甘藷や野菜類を耕作した。家族の多い先生程熱心で、後には家族まで日曜作業に出掛けて来て、期せずして職員家族で農場が賑わった」と回想している(『六十周年記念誌』)。
 校庭が掘り返されて農地となり、土手ぎわなどには茶が植えられていったが、寄宿舎も抱えており食料増産の要求には応えられなかっただろう。食料不足を少しでも解消するために、いずれも荒れていて肥沃とはいいがたい土地であったが、学校からそう遠くない山林や田畑を、学校農場として借り受けて耕作した。
 この学校農場は校庭を含めて7ヵ所あり、昭和21年の学校要覧によれば表5のようであった。校内の学校農場は、戦後の昭和28年の「学校要覧」までその存在が記載されており、戦後の厳しい食料事情にも何ほどかの役に立っていたらしい。この時の校内の農場は学校敷地の4分の1をも占め、運動場より広かった。校外の農場を示す地図の記載は、22年の「学校要覧」が最後である。

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(9)学校工場

 戦争が進むにつれ内地に残った若者も次々と戦場に駆り出され、たちまち労働力は不足し、戦争という莫大な消費とあわせて、あらゆる物資が不足していくことになる。政府は昭和15(1940)年には米、みそ、しょうゆなどの品目に切符制を採用するなどの対策を講じる一方、翌16年には国民勤労報国協力令を公布し、14歳から25歳の未婚女子に対し年間30日以内の勤労奉仕を強制した。19年4月、文部省は全国の女学校内に学校工場を設けることを指示した。本校には富士通信機が学校工場として開設することになった。
 
 この学校工場について本校に残されている資料は、わずか二葉の紙にすぎない。1枚は作業工程表であり、もう1つは富士通信機との打合せメモである。それらによると、第1期は昭和19年9月21日から1ヵ月間で生徒は117名、勤務は午前8時から午後4時までである。朝礼の後作業に入り、3時50分に終わり、終礼は庭で行われた。「学徒休日」は毎週水曜日であったが、打合せメモには「授業・水曜日にすべきか」とある。日曜もなしで作業に従事し、水曜日1日だけは学校の体裁に戻れたのだろうか。「全」休日は1ヵ月に3日しかなかった。褒賞金40円と記されているが、ほんの駄賃にすぎなかったろう。 作業に入ってはじめの3日間は講義を受けその後、束線、部品組立、ハンダ付、整理などに従事したようである。
 昭和20年3月卒業生のうち100名は、付設課程に進んだ者として、『同窓会名簿』にその名前が掲載されている。その中の一人である関根静子(高女23回卒)は、当時の様子を次のように語っている。
 
 卒業式は学校の講堂で、卒業生のみで簡単に行いました。当時は毎日軍服を縫製しており、戦争も続いていたので、家事見習の人や専攻科希望の人など支障のない者約20名ほどが、そのまま学校に残って、ミシンを踏み続けたわけです。二階の教室にミシンを並べ、足りない時は町内の生徒の家庭からも借りてきたりしました。私達は下級生の指導をしながら、毎日縫製作業に従事したのです。
 
 20年8月15日の終戦。衝撃の中で、呆然自失のまま私達は解散ということになり学校を去りました。20年9月修了生となっているのはそのためです(談)。

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(10)女子挺身隊

 軍需物資の緊急な増産が必要とされていた昭和19(1944)年8月、慢性的な労働力不足を解消するために女子挺身勤労令が勅令として公布され、14歳から25歳までの未婚で無職の女子に一年間の勤労動員が義務化された。これが「女子挺身隊」である。そして翌年6月からは、12歳に最低年齢が引き下げられた。彼女たちの職場は軍需産業であったために、不慣れな作業で労働災害に見舞われたり、敵の攻撃目標となったりして、全国各地で悲劇が生まれていくことになる。本校でも進学や就職をしていない卒業生たちが組織編成されて、日立市の日立製作所や川島の大日本兵器株式会社伊讃美工場に挺身隊として動員されていった。そこで彼女たちは、全員寄宿舎に収容され、粗食に耐えながら厳しい労働に従事した。
 
 日立製作所に動員された本校生も、昭和19年2月、第1期挺身隊として61名が、3月の卒業式を待たずに学校を後にした。4月、卒業した第2期53名もこれに続いた。彼女たちが仕事をすることになった日立製作所の工場は佐乙女工場と呼ばれ、20年3月20日時点で、本校生や福島県相馬中村高等女学校の卒業生など総勢1478名に達していた(『女子挺身隊』小平記念会 昭和60)。
 
 昭和19年9月、隊員の中島節子がチフスに罹患し、現地で死亡するという不幸な出来事がおきた。山間の焼き場で茶毘に付され、悲しみの帰郷をした。そして、校内では追悼会が開かれた。
 
 昭和20年6月10日、日立市の海岸にある軍需工場はB29による大空襲を受け、建物のほとんどが破壊され、殉職者624名を出した。幸い佐乙女工場隊員は休日のため全員無事であった。7月17日には艦砲射撃を受けた。隊員たちは防空壕の中に飛び込んで難を逃れた。続いて7月19日、日立市街地が焼夷弾の空襲を受けて灰儘に帰し、挺身隊の宿舎も焼失した。このときも本校の隊員たちは壕の中にいて犠牲者を出さずにすんだが、若き日の体験としては余りに悲惨であり、恐怖の連続の毎日であった。
 
 本校の挺身隊員が動員されていた川津無線では、昭和20年3月、石塚なかという犠牲者を出した。出征中だった兄が復員してきて聞かされたという話では、ある日、空襲警報がなって防空壕に退避しようとしたとき、彼女は入口の梁に頭を強打してしまった。彼女はそのとき以来、頭痛を訴え続けていたが、十分な医療を一般の人が受けられる状況ではなく、1週間ほどで亡くなったという。この時も学校では彼女の死亡追悼会を開いた。
 
 一方、川島の大日本兵器株式会社伊讃美工場に配属された挺身隊員にも2名の犠牲者が出てしまった。犠牲となった廣瀬みつ江、長須マサノはいずれも昭和20年3月本校を卒業していたが、付設課程に在籍する形で挺身隊として編成され、本校の他の隊員96名とともに工場に赴き、機関銃弾を製作するという協力作業をしていた。
 
 昭和30年10月19日付で茨城県民生労働部世話課長から本校校長に「女子挺身隊の死没者について(照会)」という通知が届いた。そのとき校長が調査報告した文書では、「確実なる資料記録は当時その筋の命令によって全部焼却した筈であり残って居りません」としながらも、さらに調査し、次のように報告している。
 
 廣瀬みつ江については「昭和20年8月6日前記工場に於いて協力作業中、当日午前11時0分頃敵機およそ30機来襲し、その場で敵機の発射した機関銃弾により、左胸部貫通銃瘡を受け即死す」とあり、長須マサノは廣瀬と同じ状況の中「退避態勢にあったが、敵機の発射した機関銃弾により、腹部貫通銃瘡を受け、早速茨城県下館町宮田病院に収容、最善の手当をしたるも、その甲斐なく翌7日午前8時、同病院に於いて死亡す」とある。
 
 それから50年経った平成7(1995)年8月「朝日新聞」茨城版に「茨城の戦後50年」という記事が掲載された。この連載に8月8日付で「下館高女の女子挺身隊」という記事が載った。長須と同級生であった生徒達が墓参に訪れ、その思いを語った記事である。その中の一人大井坦子は、戦後小学校の教員となり、子供達に自らの戦争体験を語り続けたという。また、その記事によると、長須マサノの墓石には「昭和20年8月7日殉職死 行年十八歳」と刻まれているとあり、終戦直前の死はあまりにも痛ましい。


 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(11)疎開

 本校には昭和5(1930)年から23年まで月毎に生徒の異動を記録した「現在生徒調」というものが残されている。それを見ると、転出入が年間を通して多いことが分かる。
 
 昭和8年を例としてみると、転入者4名、転出者6名、退学者11名、死亡退学3名、休学3名とある。しかもそれらは年度の変る時に集中しているのではない。この年の4月の時点での全校生徒は620名であるから、高い比率である。死因は記載されていないが死亡による退学も高率であり、休学者の理由でも、経済的な事情による「家事都合」が過半数を占めているものの、病気によるものも少なくなかった。
 
 また、経済的事情で授業料を全免もしくは半免してもらう生徒も多かった。最も多いのは17年6月で、全免者19名、半免者26名で、全校生徒の5%がいずれかに相当したことになる。もっとも、この比率は年とともに漸減し、20年には2%程度となっている。とはいえ、戦時中でほとんどの人が疲弊のどん底にいたことにかわりはなかった。
 
 一方、転入者は昭和19年5月から突然激増する。4月には転入者がいなかったにもかかわらず、5月には11名、6月3名、7月4名、8月14名、9月には1ヵ月で23名を数え、その年度中に合わせて92名もの転入者を迎えた。同年8月に学童疎開が本格化、下館も疎開者を多数受け入れることになった。本校でも事情は全く同じであったのである。この年、女優の香川京子も伯父の郷里の下館に疎開している。
 
 続く20年度は疎開ラッシュとでもいうべき様相であった。4月に32名、5月に96名を迎えたのに始まり、実に260名が疎開、本校に転入したのである。年度初めは全生徒数1230名で出発したが、最高時の9月には220名増の1450名に達した。7月、2年生ではなんと86名のクラスができあがった。ピーク時の9月には学年総数しか記載されていないが、もはやクラス分けしても意味がなかったのだろうか。ただ、この頃はもはや授業どころではなかったはずである。
 

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(12)修学旅行の中止

 昭和18(1943)年になると、修学旅行は全面中止となった。しかし、当時の生徒達は旅行の機会も少なく、学校行事の中でも特に修学旅行を楽しみにしていたため、残念に思うものが多かった。
 
 昭和17年卒業の浅見薫子(高女20回卒)は次のように述懐している。
 
 「日支事変も次第にその暗さを増した頃、もちろん私たちは、その頃の女学生の夢である修学旅行などというのんきなことは、あきらめねばならない時代であった。それでも12月になって、たった2日間の宮城の清掃奉仕が決まったときは、灰色がかった毎日に、ふと光がさしたような思いだった。だが、所詮はそれもかなわぬ望みであった。12月8日の突然の開戦である。」(『六十周年記念誌』)
 
 この文によれば、昭和16年には修学旅行は実施されず、東京への2日間の旅行も中止されている。

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 1 強まる戦時体制の中で

(13)戦時下下館の人間模様

 戦時下であったために、下館の地に住んだ人々がいた。西条八十は、昭和19(1944)年1月から23年まで、外池達之助宅前の問々田元吉宅の離れ家に疎開していた(桐原光明著『外池達之助』昭和58)。その八十を訪ねて、新川和江が結城から通い、詩の指導を受けたことはあまりにも有名である。当時の下館の地は、八十や達之助を中心に、文化的土壌を育むことになった。
 
 また、池辺香子(女優・香川京子)は、本校の1年2組に昭和20年1月15日に途中入学した。奇しくもその二人が「坂を下りた所の文房具屋」で遭遇したことがあった。後年、池辺香子は「下館の思い出」と題して八十の印象を、「中年の細そりした紳士という言葉がぴったりする男性」と『六十周年記念誌』で述べている。この寄稿文は次のように結ばれている。
 
 わずか7ヵ月程の間でしたが、はじめて親元を離れての生活に不安を感じていた一人の平凡な少女を、元気で、楽しく過ごさせてくれたあの下館の町を、学校を、今改めて懐かしく、ありがたく思い出しています。
 一方八十は、「とても印象に残る子を見た」と、実は彼の知人でもあった池辺の伯父に語ったという。
 
 戦時下の非常事態での日々は、切なかっただけに、人々の心の中に深く刻み込まれたのである。

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 2 敗戦を迎えて

(1)終戦

 昭和20(1945)年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、内外に未曾有の犠牲を強いた戦争を終結した。日本人の犠牲者約315万人、アジア全体では約2000万人、いずれも国民30人に1人の割合の犠牲者を出したことになるという。流言飛語が乱れとび、占領軍に暴行されるとの話に勤行川で死のうといった者もいた。毎日カボチャばかり食べていたので顔が黄色になったという話もある。

 終戦時の呆然自失の思いは、生徒達ばかりでなく教師側でもほぼ同じようなものであった。当時在職していた鷺谷義雄は「茨城駐屯の米軍の指令が苛烈で、例えば図書館の本の相当数を運動場で焼却するような具合、先生達も少しく自信を失いかけていました」と述べている(『六十周年記念誌』)。
 

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 2 敗戦を迎えて

(2)終戦後教育転換指令綴り

 戦争の終結に伴い、文部省は昭和20(1945)年8月16日学徒動員を解除し、同月26日学校授業の再開を指示した。しかし、それまでの教育に関する重圧はあまりにも大きく、教育の現場では自らプログラムを組むことが困難な状況となっていた。極端な報道管制と思想統制は国民が冷静に判断する力を奪い、特にこれまで指導的な立場にいた人達にとっては、事態をどう受け止めてよいのかわからないといった状況に立ち至っていた。それは本校に限らず、全国のほとんどすべての学校に、等しくみられたことであった。前述の文部省からの指示にしても、今後どういう教育をしていくのか見通しがあってのことではなかった。
 
 本校には「昭和20年9月以降、終戦後教育転換指令綴」という文書綴が残されている。これは、終戦直後の教育現場激動の時期に茨城県内政部などから各校に指令した文書を中心とした、全部で47通にのぼる文書綴である。
 
 初めに綴られているのは、昭和20年9月15日付の「時局の変転に伴う学校教育に関する件」である。これに先立って同年8月28日に文部次官通牒が出されており、内容はほぼ同趣旨であるが、学校授業の再開と授業優先ではあるが食糧増産に努めることとともに「8月14日発せられたる詔書の御趣旨を奉戴して」教材等に注意を払うべきことが述べられている。
 
 連合軍総司令部(GHQ)は10月から12月にかけて「教育についての四大指令」を出した。
 それは次のようなものである。
 
 1.極端な国家主義的イデオロギーの普及の禁止
 2.軍国主義者と極端な国家主義者の教育界からの追放
 3.神道に関する教育の厳禁
 4.修身、日本歴史、地理の授業の停止
 
 このGHQの指令では国家神道等の思想と、今時戦争との関連について具体的に述べた後、禁止されるべき事柄をあげている。そして最後に日本政府や県庁、市町村の官公吏やすべての教職員、国民等が「本指令各条項の文言並びにその精神を遵守することに対して夫々個人的責任を負うべきこと」としたのである。
 
 「終戦後教育転換指令綴」に含まれる文書は、県がこれらの指令をうけて各地方事務所や中学校長宛に出したものが過半数を占める。しかし、この資料をみるとGHQの指令をそのまま伝えるのではなく、前述した国体護持のため、カットしたり付け加えたりと、県がある種の解釈を加える場合があったことが分かる。
 前出の四大指令においてさえ、県内政部は国家神道等と戦争との関連について指摘した部分は全面的にカットした。また「伊勢神宮、明治神宮に対する遙拝は之を取止むべきこと」と指令を伝えた後、カッコ書きで「注意、宮城遙拝は差支えなし」と付け加えた。これと同様に「国体の本義」「臣民の道」の公布、「大東亜戦争」「八紘一宇」等の用語の使用は禁止になったけれども、それ以外の書籍や用語については「追って指示の見込みなること」とした。このように個人的責任を重視したGHQの指令と異なり、内政部からの指令は指示を強調した内容に変化していたのである。
 
 「終戦後教育転換指令綴」の内容は本校の創立90周年記念誌である『下館二高のあゆみ』に詳しく掲載されている。

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる

第3章 2 敗戦を迎えて

(3)寄宿舎日誌

 終戦の前後、学校がどのような状態であったかを知る資料は校務日誌などが残されていないので不明な部分が多い。しかし、終戦後の9月半ば以降ではあるが、「寄宿舎日誌」が保存されていて、戦後の窮乏の様子などが生々しく記録されている。
 
 これによると、月、水、金は作業をしており、主にそれは食料調達のためのものであったらしい。日誌には何度も「大豆の収穫」「馬鈴薯の手入」「甘藷切干作り」などの作業を行ったことが記されている。栄養不足と疲労のため、この頃床につく者も多く、「脚気にて帰省」「貧血のため」欠席といった状態であった。
 
 本校の授業再開は県への報告書の中では8月24日としているが、「寄宿舎日誌」の中では、11月11日の記録に夕飯時に「明日より正規の授業が始まる故、今晩の自習時間はしっかり勉強する事」の訓示がなされたことが記されていることから、11月半ばまでは作業中心の生活であったことが推察できる。
 
 12月24日、どうにか終業式を迎え、朝食時に、家に帰ったらよく手伝いをし、親を安心させ、よい娘としてよい生活をし、必ず一つは親孝行らしいことをしてくるよう訓示して、帰省させている。翌年1月7、8日に生徒は寄宿舎に全員戻るが、舎監はその間にも炊婦の件や食料について心配している。7日には役場へ塩の配給を受けに行き、とりあえずあるだけをもらってきたり、「生必組合」に味噌の配給を頼みに行ってもらってきたりしている。
 
 厳寒期となったが、炭がなかなか手に入らず苦労もしている。1月8日に「4度以下になったら炭が来次第火を入れてあげる」とあるが、炭、薪が到着し、やっと部屋に火が入ったのは17日の夜のことであった。
 
 宮城遙拝については、1月21日に「朝、体操後の宮城遙拝故郷挨拶に出ない人のない様注意す」とあり、ずっと続いていたようであるが、3月13日に「本日より宮城遙拝を寄宿舎としてはやめるけれど精神は忘れぬこと」と書かれている。
 
 「寄宿舎日誌」には朝、夕食時に、当番舎監が生徒に対して話をした内容が多く記されているが、新聞をよく読むように指示したり、その日の大きな記事について解説を加えたりする内容が多く、注目を引く。時事問題を積極的に扱う姿勢が強いことは、今日との様相の違いを感じさせる。
 
 昭和20年度もまもなく終わろうとする3月の記事にも食糧事情の苦しさを示すものが多い。3月15日には「現在試験中は三度共御飯にしたが、これは休み中の分を食べているのであるから休み中は持ち帰らぬこと」、翌日の記事では「馬鈴薯種を持って来てほしい」とある。空腹に耐えかねて、他人のものを食べてしまったこともあったようで「恥ずべきこと」であると注意をしている。まだまだ食糧難は続くのである。
 

 第3章 メニューにもどる

 目次にもどる