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第1章

草創期
1 創立から町立まで    
 (1)私立下館裁縫女学校の誕生
    旭町
   (3)過渡期の町立女子技芸学校

 (2)下館町立裁縫女学校へ
    羽黒神社南付近
   (4)当時の女子教育

     
2 実科高等女学校として    
 (1)郡立への移管
    富士見町(現:細谷高等専修学校)
   (3)学校生活

 (2)教育方針生徒心得

   (4)寄宿舎


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第1章 1 創立から町立まで
(1)私立下館裁縫女学校の誕生  ※下館二高のはじまりは、旭町から

 明治5(1872)年の学制頒布以来、近代学校教育は次第に整備されていったが、その根幹をなす義務教育の就学率は伸び悩んでいた。就学率が高くなり、ようやく50%を超えるのは30年代になってからのことである。そのころ、つまり明治30年代は、日本の産業革命の時代にあたり、古い封建的な制度などを残しながらも近代の産業社会へと大きな変化を遂げつつあったときだった。教育に対する期待は国の側からも、国民の側からも高まっていき、義務教育の就学率は急激に向上していった。樋口ー葉が『たけくらべ』を書いたのが28年、津田梅子が長い留学を終え、女子英学塾を創立したのが33年、さらに翌34年には日本女子大が開校し、与謝野晶子の『みだれ髪』が刊行されている。

 元下館藩士であった大日方直廉は、福沢諭吉の『学問のすゝめ』に感銘し、女子教育の必要性を痛感していた。明治31年、彼は私財を投じて、東下里(現旭町)の自宅で養蚕をしていた平屋建て草ぶきの家を改造し、私立下館裁縫女学校を設立した。


※自宅の養蚕をしていた平屋建て草ぶきの家を改築しました

 ここに本校の前身である裁縫女学校が、私立の形で誕生したのである。本校は、この私立裁縫女学校が町立に移管された明治33年を創立としているが、私立時代を含めれば本校創立は2年遡ることになる。茨城県内ではもっとも早い時期に、義務教育後の女子教育機関が下館に生まれたことになる。この裁縫女学校は、修業年限を2ヵ年とし、東京から優秀な教員を招いて教育にあたり、33年には第1回卒業生25名を出すに至った(下館町編『下館郷土史』昭和15)。

※私立下館裁縫女学校第1回卒業生

 創立当時生徒は口頭試問を受けて入学、入学生は町内の者が半数、他は近村の先端を行く女性たちであった。なかには近所に下宿して通う者もあったようだ。授業は裁縫が主だったが、修身や国語なども勉強した。作法は小笠原流の先生を東京から招き、泊まっている旅館まで代表者数名が行って習い、それを学校へ帰ってきて皆に教えていた。生徒は1学年20数名ずつの2学年、授業料は月30銭であった。また、服装は袴ははかず地味な着物に風呂敷包みといったものだったが、卒業式には、卒業試験として縫った木綿の黒紋付をお揃いで着て臨んだという (『五十周年記念誌』『六十周年記念誌』)。

 このように当時の授業科目は裁縫が主で、東京から招聰された校長でもある逸見とも※1が担当していた。校長といっても現在とは異なり、全てを一人で行っていたのである。この初代校長逸見ともは私立時代の2年間と町立に移管してからの7年間、本校教育に携わった。また、修身と国語については、1週間に2時間、下館尋常小学校の校長であった牧正寛※2を招いて教えてもらっていたらしい。
※1 初代校長です
※2 下館小学校の正門に石碑が建立されています。
第1章 1 創立から町立まで

(2)下館町立裁縫女学校 ※2番目の移転先は、羽黒神社南の下館ケアセンターそよ風あたり
 明治32(1899)年、「女子に須要なる高等普通教育を為す」ことを目的に高等女学校令が制定された。「男子に須要なる高等普通教育」の場としてはすでに中学校があったが、特に女子に対して「高等」と冠したのには、女子の教育を受ける機会は「これまで」という意味があった。

 
 この高等女学校令により1府県1校設置が義務づけられたため、各府県の県庁所在地に公立の女学校が次々と誕生した。茨城県でも県議会で可決され、明治33年、茨城県立水戸高等女学校(現水戸二高)が新設された。修業年限4ヵ年の本科と後に実科となる技芸専修科とからなっており、技芸専修科は裁縫、手芸を中心としていた。創立当時の本校の授業科目は、この水戸高女の技芸専修科と大体同じものだったようだ。

 私立の裁縫女学校として出発した本校だったが、学校経営は私費だけで賄いきれるものではなかった。「時勢は益々女子教育の緊切なるを要求するのを鑑み」(『下館郷土史』)、当時下館町の町長であった早瀬健と協議のうえ、町長等が発起人になって篤志家の寄付を仰ぎ、教育内容の改善と充実を図ることになった。

 当時、羽黒神社の南、現在は公園となっているところと元松岡病院は地続きになっていて、大町から稲荷町に下りる切り通しの坂道はなかった。その羽黒公園の付近には下館尋常小学校があったが、元松岡病院側に裁縫女学校の新しい校舎を建てることになった。それと同時に前年に発令された公立私立学校令に合うだけの手続きを行い、文部大臣の認可を得て、明治33年、私立下館裁縫女学校は町立へ移管された。本校はこの下館町立裁縫女学校をもって創立としている。

 町立に移管された本校は、外観、内容ともに充実し、一段と女学校らしい体裁を整えていった。この頃の校長は、私立時代から関わりのあった下館尋常小学校の7代女子部校長牧正寛が兼務した。授業科目は裁縫、国語、修身の他に、地理、音楽、体操などが加わっていった。

 この町立裁縫女学校は、校名が変更される明治43年まで10年間続いた。生徒数も次第に増え、教職員も最後の頃には13名に増えていた。
 

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第1章 1 創立から町立まで

(3)過渡期の町立女子技芸学校 ※下館尋常小学校は、羽黒神社の公園のあたり
 本校は、明治43(1910)年、下館町立女子技芸学校と校名を改め、下館尋常小学校の一部に移転し、そこを仮校舎としてスタートした(「茨城県下館高等女学校一覧」大正10)。


 この女子技芸学校は、修業年限3ヵ年、全生徒数が数十名、町立から郡立へ変わる移行期の2年間という短い学校であった。

 明治44年にこの技芸学校に入学し、実科2回卒となった菊地きみによれば、当時の授業は裁縫が中心で、羽織袴から一通りを縫い、手芸は日本刺繍が主で半襟や袱紗などを作ったという。他の学科としては修身や礼法、国語、地理、音楽、体操などがあった。オルガンや大きなラッパのついた蓄音機も使い、袴姿ながらダンスもした。普段の日の服装は地味な着物にえび茶か紫紺の袴、履物は下駄で、掃除の時はたすきがけ、荷物は風呂敷に包んでいた。生徒は町内はもとより、竹島、五所からも徒歩通学をしていたし、遠方の生徒は寄宿や下宿をして通っていたのだった(『六十周年記念誌』)。


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第1章 1 創立から町立まで

(4)当時の女子教育

 年度について明らかではないものの、町立女子技芸学校の用箋を使ってまとめられていることから、その頃のものと判断されている「教育方針一般」という資料がある。当時の女子教育についての考え方が如実に語られている貴重な資料である。内容は「我校の教育方針一般」と「生徒心得」の2つからなっているが、まず「教育方針一般」では「女子は須らく温和にして柔順なるべし」の書きだしで始まる。しなやかだけれども簡単には折れない柳の枝を理想とし、心を修養し女子の特性を自覚することで、妬んだり、恨んだり、嫉妬したりすることは自然に消え、社交の場でも家庭の中にあってもきりまわしが楽になり、清浄無垢の世界に遊ぶことができると説いている。また、そうしなければ、感情の奴隷、欲望の機械になるというのである。

 今日ではこの文章を一読して、女性差別、封建道徳の強要と感じる人も多いであろう。江戸時代から明治時代にかけて広く普及した『女大学』に近い内容となっている。この頃はようやくそうした考え方に批判が出始めた時代だったが、国家主義的な立場から、学校教育ではこのような考え方をむしろ容認あるいは強化する方向にあった。

 「生徒心得」では、第1条でまず教育勅語と戊申詔書の遵守を説く。教育勅語は明治23(1890)年、戊申詔書は41年に出された詔書で、いずれも天皇絶対を国民に強制するものであった。当時、学校教育は議会とは無関係な天皇の統帥権の一部とされており、その絶対的権力は生徒心得の第1条に掲げられるべきものだったのである。

 次いで第2条では儒教道徳の尊重を説き、第3条では質素倹約、第5条では克己忍耐をすすめている。第7、8条では、衣服の素材は綿だけに限る、指輪や肩掛けは禁止、などとより具体的になっている。第9条では父兄より許可されたもののほかは本、小説類は読んではならない、第10条では校外の「品位を損すべき場所」への出入り禁止など、生徒の主体的な判断を求めるのではなく、あくまで「柔順」を求める内容になっていた。

 条文は全部で24条にものぼり、なかには生活の細部にわたる注意事項もあるが、最後には「なかんずく裁縫は女子の天職を完うする唯一の技芸なるを以て各学科中、特に之に多大の時間を与える」と技芸学校の任を要約し、家庭労働、勤労のすすめを説いて結んでいる。


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第1章  2 実科高等女学校として

(1)郡立への移管  ※3回目の移転先は富士見町 現在の学校法人細谷学園 細谷高等専修学校

 明治45(1912)年、文部大臣の認可を得、本校は真壁郡立実科高等女学校となった。組織変更に際しては、修業年限3ヵ年、生徒定員120名とし、入学資格は高等小学校第1学年修了、満13歳以上であった。町立の生徒を試験のうえ編入させ、1年生35名、2年生25名、3年生24名の計84名からのスタートであった。当初は、下館尋常小学校の校舎を仮校舎とした。
 
 この移管に先立つ明治43年、高等女学校令が一部改定され、主として家政に関する学科目を履修する、実科についての規定が加えられていた。文部省はその意義について「近時女子教育の進歩に伴い実科的各種学校の設置を企画するもの漸く多きを加えん」としており、実業の学科目を設ける理由については、「実業の趣味を涵養するとともに、女子をして家業を重んじ勤労を厭わざるの美風を失わざらしめ、質素勤勉の気風を養成せしめ、中産の家庭に生育したる女子にしてその主婦たることを得ざるがごときの時弊を匡救(正し救う)せんとするに因る」としている。
 この文言は、本校の「実科高等女学校教授要目」にそのまま引用されている。また、文部大臣宛の申請書に添付した、本校の実科高等女学校への組織変更の理由書には「家政に関する学科目を授け、殊に本郡の状況に応じて裁縫に重きを置き、家庭に於ける良妻賢母を養成することに努め云々」とあった。
 大正元(1912)年(明治45年7月30日改元)、本校は新校地として下館町から、富士の越に約1000坪の土地の無償提供と、5000円の寄付を受けた。『五十周年記念誌』には、この間の事情について記され、移転地として本城町にという意見もあったとしている。そして、真壁郡参事5名の票決の結果、4対1で富士の越に決定した。2年2月校舎新築に着手し、同年6月に落成、下館尋常小学校の仮校舎から新校舎に移転した。
 
 校舎建築の経過は以下のようなものであった。
 大正2年   下館町から3段1畝18歩(3128㎡)の土地を提供される
           2月3日 校舎新築着手
           6月15日 校舎落成
           9月18日 テニスコートを設置
           4月19日 1段3畝20歩(1353㎡)拡張寄宿舎建設に着手
           6月19日  校舎玄関成る
           6月20日  校門成る
           6月30日 寄宿舎成る
 大正4年
           3月20日 校舎並びに寄宿舎落成式
           9月1日 校舎増築着手
           10月29日 校舎増築成る
 大正10年
          4月10日 5畝27歩(587㎡)を借地し、校地拡張

※郡立実科高等女学校(富士の越(こし))の校舎

 創立間もないこの頃は施設、設備ともに不十分で、「実科高等女学校校勢一班」(大正7)などを見るとそのころの労苦がしのばれる。教材教具は職員や生徒の手作りのものが多く、家事や作法の教具なども卒業生や篤志家の寄付をあてにせざるを得なかった。卒業記念品として、大正2年の第1回卒業生は作法用具、4年の卒業生は家事用具を贈っている。
 
 大正3年6月に寄宿舎ができるまでは、遠隔地からの生徒を仮に裁縫室に収容していた。また運動場は土質が悪く、冬になると使用することができなくなるので、石炭殻を敷いてみると「成績すこぶる可」になったという。蔬菜(そさい)栽培のための実習地もあったが狭いので、茶のようなものは運動場の土手側に植えた。校舎に電話が入ったのは3年のことであったし、校舎の屋根が瓦葺きになるのは6年のことである。
 こうした状況は実科時代ずっと続いたようで、大正9年の郡への報告書でも、設備を一日も早く整えたいが、「今なお割烹室(調理実習室)すら欠けるが如きは実に遺憾に堪えざるところなり」と窮状を訴えている。これは本校の財政事情によるところが大きかった。当時の財政をみると、収入は郡の負担金を中心に生徒からの月1円の授業料などで賄われていたのである。県からの補助金は5年から受けていたが、郡負担金の3分の1以下にすぎなかった。『五十周年記念誌』の中で、その時のPTA会長中澤乾次郎は、この当時真壁郡の郡としての事業は他になく、本校の経営は郡の財政事情に規制されていたと述べている。


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第1章  2 実科高等女学校として

(2)教育方針生徒心得

 当時すべての学校で最も重要とされたのは教育勅語と戊申詔書である。どちらも天皇は神そのものであり、教師、生徒、すべての国民は天皇に対して絶対服従であることを示したものであった。本校の教育方針においても、冒頭でこの二つの詔書の取り扱い方について述べている。教育勅語に関しては「生徒には常にこれを暗誦せしめ、機会ある毎に校訓の起結を聖諭に採り、専ら聖旨の貫徹に努む」とし、戊申詔書については「教育に関する勅語と同様、生徒教育上の各方面に応用して、其の御趣旨を奉体せんことに努む」としている。それらは勅語発布記念日、天皇・皇后の誕生日、各学期の始業式などに学校長が恭しく読みあげて、生徒はもちろん参加者全員が直立不動の姿勢で聞かなければならなかった。
 
 また、本校の生徒として最も遵守すべき心得として「自鑑」というものが印刷され、全生徒に配布された。生徒は日常これを鑑として生活することを求められた。大きさはA5判4ページ、表紙にあたる面には鏡が描かれていた。「訓練上に於ける施設」には「鏡(鑑)の形であって、鑑みるという意味を持たせた」とある。
 
 「自鑑」の表紙には、その鏡を囲むように明治天皇の歌が二首書かれている。
 
 さし昇る旭の如く爽やかに
   持たまほしきは心なりけり
 国民は力のかぎり尽くすこそ
    我日の本のかためなりけれ
 
 裏表紙にあたる部分には加賀千代の句がある。
 
 千なりや蔓一すじの心より
左 表紙  右 裏表紙

 この内側、見開きの右側には「聖旨奉体」「教育勅語」「戊申詔書」「至誠」の語が掲げられている。当時の校長千ヶ崎粂之助のものと思われる書き込みがあり、そこには「至誠は宇宙の大道、万物の大則なり、人は至誠によりて天地万物の大道に参し、これを支配することを得、至誠にして始めて中心自ら崇高の感を抱くことを得べし」「良心の声を聞きて決心するを誠といい、常に良心に誠なるものを忠実なる人という。磨かざる我は決して真の至誠に到達することなし」と記されている。
 
 左側には「女子の快楽、女子の名誉、女子の天職、斉家」の言葉が並んでいる。それらを得るための「常の心得」として「清潔、整頓、質素、勤勉、仁恕」をあげ、それらを「成功」させるためには己に克つ強い意志が必要なのだとまとめている。
 

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第1章  2 実科高等女学校として

(3)学校生活

 教育目標としてはまず勅語や様々な儒教的徳目を守ることがあげられているが、実際の教育の場ではかなり実学的であったことが伺える。「教授上に関する施設」をみると、「教授は常に訓育と相俊ちて地方の状況に応じ、実際に必須なる事項を授くるを期す」「智識はこれを自然的に得しめんことを期す」「学級会、談話会、講話会、対話等を利用し、常識の養成に努む」などと単なる知識の習得に終わらないよう配慮した内容になっている。

 生徒の学校生活に関しては、まず「会礼」が挙げられる。毎週の月曜日の朝、生徒と教師は「一堂に会して礼の交換をなし」そのときに校長や教師から「簡単なる訓諭を行う」としている。また、昼食時に担任は「生徒と会食して適当なる指導をなす」とあり、以下「生徒週番」「学級会」などが続く。これらは今日まで受け継がれてきた日本の学校の基本的な生活の風景でもある。もちろん今日とは異なる部分もあり、例えば「趣味の涵養」のところで「学園をつくりて園芸の一部を味わわしめ、又所々に盆栽等を配置す」としているのは、殺風景になりがちな学校の景観に対する配慮でもあろう。また、生徒の管理に関しては現在とは比較にならないほど厳しい。毎土曜日もしくは臨時に各生徒の机内や携帯品の検閲をしたり、生徒宛の書信も「受信の都度適当の調査をなし、後生徒に交付す」ることが行われたし、校外での監視も厳しかった。廊下の端に大きな鏡を置いて「容姿を整え、兼ねて精神修養上の資となす」ように指導もされた。

 衛生についてはかなり留意されている。大正8(1919)年と思われる文書によると、前期検診でトラホームの生徒が2割を越えていた。また飲料水は煮沸したものを用い、手洗い水は汲み置きしたものでなく「流水装置」のものであるべきだとした。当時の校医三上文七はシベリア出征病院付として出向していたが、同年ハルビンから「衛生上の注意」という文書を本校に送っている。内容は早寝早起きの奨励からはじまり、歯を磨くこと、石鹸で顔や手足を洗うこと、台所、便所、下水などを清潔に保つこと、肌着、敷布、枕を度々洗濯することなど身近な所の衛生に留意すべきことを挙げた後、最後に「パンの製法を研究し、1日1回パン食とすれば理想なり」と結んでいる。

実科高等女学校第7回卒業生

 夏休み(当時は暑中休暇といった)は現在と同じく40日程度あり、現在と同じように宿題も出された。その頃の宿題が今も残されている。それによると、1年生の理科では植物の生長と日光との関係を実験せよというもので、日光にあたったものとそうでないものとの茎の伸びや葉の色の違いを観察させている。2年生の家事科では繊維とアルカリとの関係を実験せよというものであるが、その実験材料が「灰汁」と「洗濯ソーダ」としているところがいかにも時代を感じさせる。3年生の家事科では日用品の物価を調べさせている。大正8年は米価が高騰し、新潟をはじめ各地で米騒動が起きた年であるが、白米その他の日用品が騰貴前と現在とでどう変わったかを調査し比較させるというものであった。このほかに、各学年共通の課題として、廃物を利用して雑巾を縫い学校に寄贈することになっていた。

 大正8年の「茨城県真壁郡立実科高等女学校校勢一班」によれば、2年の6月に全生徒が水戸に出かけ、同年10月に修学旅行として鎌倉に行っている。また4年の10月に、全生徒が参加して日光方面に行っている。このとき次回は大正6年に鎌倉地方という記述があるので、修学旅行は隔年で実施することになっていたようだ。ところが、この鎌倉旅行で暴風雨に見舞われ、しかも生徒一人が急性肺炎に罹り、東京の病院で死亡するという不幸な事態が起こってしまった。引率の教員一人が残り、生徒にはそのことを秘して上野から帰途につかせたという (『六十周年記念誌』)。このためか、これ以後実科時代に修学旅行は行われていない。
 
第1章  2 実科高等女学校として

(4)寄宿舎

 遠隔地(交通機関の未発達だった当時では下館地域以外はほとんどそう呼んでよい)の生徒で、親戚などに頼ることのできない者は寄宿舎に入ることになる。大正9(1920)年の「施設要項」では、寄宿舎定員30名のところ「現在34名、尚入宿希望多きも、悉く満足を与え得ざるを遺憾とす」とある。10年の「茨城県下館高等女学校一覧」では、自宅通学128名、親戚宅19名、下宿5名、寄宿舎30名で、自宅通学のうち汽車を利用するものは25名であった。

寄宿舎(昭和初期)

 ここでは郡立実科時代の「寄宿舎舎則」の概要を紹介しよう。まず「寄宿舎は家庭に代わり、善良なる家庭的生活をなさしむるを以て根本方針となす」とされ、起床から就寝に至るまで事細かく規則化されており、舎監がそれらを管理していた。「農起の報を聞かば直ちに寝床を離れ、寝具を片付け朝食時間までに髪を梳(くしけず)り、衣服を整うべし」、「毎朝掃除後神棚に奉安せる太神宮を拝すべし」、また、自習時間は静かに「黙読」すること、「随意時間」は外で運動してはいけない、などと実に厳しい。
 外出は水曜と日曜のみで、その際は外出簿に行き先などを記入した。1人での外出は認められず「多人数集合の場所等」への立ち寄りも禁じられた。手紙を出すときは切手を貼って舎監に差し出し、受け取るときも舎監を通した。出所のはっきりしない手紙や品物は、場合によっては舎監の検閲を受けることもあるとしている。
 
 それぞれの部屋は各学年の生徒を混在させ、全部で4室あった各々をひとつの家庭に見立て、室長1名を置いてこれを「主婦」としている。炊事、掃除は当番制で、舎費の計算も生徒自身が行った。昼食は弁当を作り、昼間は一般生徒と同じになるようにした。入浴は暑中でなければ1日おきで、入浴順も決まっていた。
 学資金などの金銭は舎監が保管し、必要に応じて生徒は舎監から現金を渡された。特別な場合を除きその額は50銭までとされた。その小遣銭も学校所定の小遣帳に記入し、舎監と父兄の検閲を受けるようになっていた。食費、燃料費は実費負担だが、米は現物持参が原則で、漬物などは材料を買ってきて自分たちで漬けた。「経済上余程徳用なり」とある。1カ月の費用は1人2円程度であった。
 
 こうした厳しい舎則ではあったが、最後の「雑」の項の中には、各室に花や盆栽、額などを置いて、寄宿舎が「愉快なる所たらしむると同時に、趣味の向上を図らんとす」とある。また、娯楽室では「舎監の検閲したる雑誌、書籍その他品性修養に関する書冊」という限定つきであったが、読書を楽しむこともできたようだ。実際どの程度行われたかわからないが、春には「摘み草」夏には「蛍狩り」秋には「月見・菊見」その他五節句等の会を「行わしむることあるべし」ともしている。
 
 大正4年3月のものと思われる第1回の寄宿舎の送別茶話会のプログラムが残されている。そこには合唱、独唱、対話、朗読など全部で27の題目が並んでおり、最後は「蛍の光」の合唱となっている。