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第2章

激動の昭和初期
1 茨城県立下館高等女学校として
                    
 (1)実科から高女へ     (7)学校生活と進路
 
 (2)県立移管当時の概要   (8)7泊8日の修学旅行

 (3)新校舎に移転      (9)校歌の制定
    現在地:岡芹へ
 (4)「開校式」と記念樹   (10)奉安殿の設置
 
 (5)ピアノ購入       (11)陸軍大演習と「蹕之碑」
 
 (6)制服・校章と校旗 

2 創立30周年を迎えて

 (1)「質実剛健」という校訓
 

 (2)砂運びとトマト栽培
 

 
(3)身体状況と保健衛生
 

 
(4)創立30周年の頃
 

 
(5)補習科の設置
 

 
(6)水害見舞いに布団制作
 
 
 
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第2章 1 茨城県立下館高等女学校として

(1)実科から高女へ  茨城県下館高等女学校と改称

 大正10(1921)年4月、本校の校名から「実科」の文字が消え、茨城県下館高等女学校と改称された。しかし、この校名は1年だけであり、翌11年には県立に移管されることになる。
 
 郡立実科から高女へ、そして県立となるについては、大正9年の高等女学校令改正や地域からの強い要望、学校経営に対する郡財政の負担増などがあると思われる。また、多数の人々の熱意によることは勿論であり、各記念誌にもさまざまに紹介されている。それらを総合すると、移管の実現に尽力したのは、代議士鈴木錠蔵、郡会議員杉山安、町会議員木村常吉といった人々であった。費用においては、下館町をはじめ近隣の町村もかなりの金額を負担している。
 
 この時、本校と同時に県立に移管されたのは水海道高等女学校であり、下妻実科高等女学校は、本校と同じ真壁郡にあるために見送られたとされる。下妻高女はかなり遅れて昭和17(1942)年、県立に移管された。このようにして水戸高女(明治33年創立)、土浦高女(36年創立)に続いて、20年ぶりに県下に三番目の県立高女が二校誕生した。「茨城県立下館高等女学校概覧」によれば、詳細な経過は以下のとおりである。
 
 大正10年4月1日
  茨城県下館高等女学校と改称し生徒定員を200名となし設備を充実す
 大正11年3月4日
  茨城県下館高等女学校の位置を伊讃村明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)碑所在地
  に変更し、
かつ大正11年4月より県立とし茨城県立下館高等女学校
  改称の件、文部大臣より認可される
 同年3月13日
   生徒定員を600名と定められる
 同年4月1日
  加藤吉士校長兼教諭外職員7名、それぞれ辞令を用いずして茨城県立
  下館高等女学校職員となり、
生徒はそれぞれ相当学年に編入す
 同年4月8日
  仮教室を旧茨城県下館高等女学校校舎に設けて始業式を行う
 大正12年1月1日
  新校舎において新年式を行う
 同年1月6日~7日
     新校舎に移転
 同年5月7日
     新校舎で開校式(この日が、本校創立記念日となりました)
 
 この変革の時代に学校生活を送った高女1回卒の阿部千代が述べているように、英語や幾何が正課となり、そのぶん裁縫の時間が減るなど、授業の内容も変化した。

 

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第2章 1 茨城県立下館高等女学校として

(2)県立移管当時の概要

 大正11年(1922)年4月1日から県立移管となり、生徒定員も600名となったが、新校舎は未完成であり、4月8日の始業式も富士の越し校舎で行われた。生徒の通学形態を岡芹校舎移転後の大正12年度の資料で述べてみる。生徒総数404名の約17%に当たる70名の生徒が寄宿舎に入り、他に親戚等の家から通学する者も42名いた。この当時自転車はまだ普及しておらず、大部分の生徒が徒歩通学であった。昭和3(1928)年の時点でも自転車通学者はわずかに6名であったが、その後徐々に増え、14年には全体の約18%にあたる117名の生徒が自転車で通うようになる。



 早瀬覚教諭によると、県立移管当時「米の相場が一俵10円そこそこ」であり、「13円50銭の自転車はなかなか買えないような農家の経済状態」であったため、私が子供の頃「村の小学校から下館女学校に上がれる生徒はまだまだ少数で」あったという(『六十周年記念誌』)。女子中等教育機関としての女学校の数はまだ少なかったため、競争率は2倍強であり、2日間の選抜試験を経て入学を果たした。
 
 一方、この頃の女子教育には、裁縫教授所が大きな役割を担っていた。学校形式になっていたのは、細谷・西村の両裁縫女学校だけであるが、その他にも二十余軒の裁縫所があり、特に農閑期には多くの女子が学んだのである(『下館郷土史』昭和15)。
 

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(3)新校舎に移転  ピンクの校舎
 「一体どんな素晴らしい女学校が建つのだろう。」人々の期待と注目のもとに、県立移管の翌年、現在地にピンクの校舎が威容を現した。工事を請負ったのは秋山弥惣治であり、下館の町中からかなり離れた八丁台の畑の中、伊讃村(現在地)に2階建ての瀟洒(しょうしゃ)な校舎(岡芹校舎)が誕生した。


 「女学校一覧表」の注記によれば、最初引き渡された校地面積は9920坪であったが、実測してみると実際の坪数はそれより多い1万600坪であったとあり、当時の校地は非常に広大なものであった。移転場所としてこの地が選ばれたのは、高台の風光明媚な場所であり、十分な敷地があり、「明治天皇駐蹕之碑」が建つ由緒深い所であったからである。各記念誌でも窓外の景色の良さを、「朝などは高原の爽やかさ」「筑波の紫峰・足下の勤行の清流」と絶賛している。

 新築成った新校舎に移転したのは、大正12(1923)年の1月のことであった。この時の生徒総数は299名、教職員13名であった。実科高等女学校のあった富士の越(現富士見町)から現在地までは、泉町の交差点を通って下館中学校の横の坂を登り、現在の距離で約1.7kmである。「全校生徒が一丸となって、荷車を引っ張って机・椅子などの校具一切をかけ声勇ましく運んだ」とある(『六十周年記念誌』)。「学校要覧」の沿革の記述によっては、「1月8日移転」または「1月6、7日移転」とあり、記載が統一されていないが、6日と7日の両日にわたって引っ越しをし、校舎に落ち着いたのが8日であったと思われる。

 運び終わった後には、もう一仕事待っていた。それは、校舎全体の大掃除である。「もうもうと土埃りの立つ中」、「未墾地とも乱雑ともいうべき雑草のしげった畑の中」、「学校の周囲は麦畑、校庭も草が抜き間にあわぬ位」といったこの当時の校内の状況を伝える言葉が、各記念誌に頻繁に登場している。しかも、広大な校地にはまだ二階建ての本館と寄宿舎が竣工しただけであった。百本の桜花が咲き乱れ、木蓮、山吹、藤、萩などの花が四季を彩るまでには、もう少しの歳月を要するのである。
 

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(4)「開校式」と記念樹  ※創立記念日の由来  

 大正12(1937)年5月7日、本校の「開校式」が執り行われた。この5月7日が、以後創立記念日となった。式には、知事守屋源次郎、郡長熊切和一、下館町長水越喜之助、太田出身の東京府会議長堀江正三郎などが参列し、文部大臣の祝辞も寄せられた。町・地方あげて祝賀ムードー色で、校内ではこの日より3日間生徒作品の展覧会が開催された。この時の記録は乏しく詳述できないが、翌13年度の学芸会のプログラムには、理科の実験報告や歴史談話、狂言、英詩朗読、四部合唱、斉唱などと多彩な内容が記載されており、開校式前後にも同様の催し物がなされたのではないかと推測される。この頃は展覧会やバザーが度々実施され、父兄や近在の人たちが多数来校した。
 同年6月11日には新校舎落成式が、鎌田栄吉文部大臣を迎えて盛大に行われた。その時の様子を鈴木市右衛門教諭(後第10代校長)は、「田舎の女学校には例のないことと大騒ぎ、汽車も一車だけ特別に連結して来た。駅頭から人力車の行列」と述べている。

 記念植樹も行われた。検討の結果、下館町田町の板谷邦三郎の進言で「一位」(イチイ科の常緑高木)が選ばれ、竹島の飯島九一郎家の庭にあったものを本校に移植した。また、桜・欅・松なども生徒の手によって植えられた(『六十周年記念誌』)。

 
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(5)ピアノ購入

 大正11(1922)年から翌12年まで在職した謝花ちよ(旧姓伊藤)は、次のように述べている。
 
 その頃学校にはピアノがないので購入することになりましたが加藤校長はどうせ購入するなら日本一のを買うことにしようと言われたので大変うれしゅうございました。東京の共益商社(現ヤマハ)との何回かの交渉でとにかく私に行って見てこいとのことでしたので先輩の方 同伴で見に参りました(「六十周年記念誌』)。

 その結果、ドイツからの直輸入品であるベヒシュタインを購入することになった。この時これと同じピアノは、上野の音楽学校(現東京芸術大学)の奏楽堂と広島の高等師範学校にあるだけで、たいへん貴重なものであった。 謝花ちよは「たてピアノが150円で買えた時」に、価格は「たしか6000円でした」と述べているが、本校の他の記念誌では価格を2600円としているものが多い。しかし、この2600円は地方有志、生徒父兄、同窓会員、本校職員の寄付金でピアノ代金の未払い分を支払ったものである。多数の人々の支援によってかなり高価なピアノが本校音楽教育のために備えられた(第7章「みかげ会の活動(1)」の項参照)。
 
 この時の寄付金「報告書」の挨拶文で加藤吉士校長(第5代校長)は感謝の言葉に続いて、前述の開校式にもこれを使用したと述べている。また、8月に竣工したばかりの雨天体操場で10月中旬に「第1回音楽演奏会」を開くのでその時は参加するよう呼びかけている。


 ※現在も現役で使われています。 ベヒシュタイン!

 高野好(補修科5回卒)は、今回、このピアノについての思い出を綴った一文を寄せてくれた。そのグランドピアノがあった音楽室での授業が眼前に見えてくる。ピアノを弾かれる時、必ずハンカチで指を拭いていらした草間先生のお姿も懐かしく、ピアノに導かれて覚えた数々の歌には、それぞれ当時の自分が溶け込んでいて口ずさむ時、昔の雰囲気に包まれて若返る。このべヒシュタインピアノは、今でも音楽準備室に置かれていて、深みのあるその音色を聴くことができる。
 

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第2章 1 茨城県立下館高等女学校として
(6)制服・校章と校旗 
 本校の校章は、岡芹校舎に移転する以前、県立移管が決定した時点で制定された。大正12(1937)年度の「学事年報」の「沿革」に、「大正11年5月29日本校生徒の徽章を制定す」と明記されている。
   当時の校章と現在の校章
 この頃は要人の来校や建築物の引継ぎなど記載事項が多かったためか、「女学校要覧」などにもこの項目は以後省略されている。ただし、大正14年度入学者の「生徒心得」には、「上校(登校の意)は、筒袖服に当校所定の徽章を付したる袴を着用すべし」と記載されている。
 
 この校章が図解入りで資料として残されているのは、昭和7(1932)年度の「学校要覧」である。実物大の徽章を図示し、「六花鏡に茨及び下と女字」を表すと説明している。また、現在の校章は、校名が「下館二高」と改称された昭和24年4月以降から使用された。外形部分はそのままに、中心部分で「二」と「高」を表したのである。
 
 一方、校旗については、昭和4年11月下旬に水戸で陸軍の大演習が行われた際に、「高島屋で新調した真新しい校旗をかざして」行ったという記録がある(『六十周年記念誌』)。この時、それまであった校旗を新調したらしいが、詳細は不明である。
 本校の制服は、大正14年度から「セーラー型」を標準とすることが決定された。昭和5年卒業の宮崎いせは、当時の様子を「入学当初は、袴に靴の上級生がいたり、自由な服装から、藤色二本ジャバラの校服ができ、全生徒が紺一色の清楚な姿と変った」と述べている(『六十周年記念誌』)。

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第2章 1 茨城県立下館高等女学校として

(7)学校生活と進路

 「人の和と地の利に恵まれた」本校では、生徒と教職員が一致協力して校内の環境整備に汗を流したことは、前述のとおりである。大正12(1923)年当時はまだ二階建ての本館と寄宿舎1棟があるだけで、生徒数も少なく、「何かと不便な実情」であった(『六十周年記念誌』)。
 
 1年から4年まで各150名の定員生徒数が揃い、教職員も増え、校舎建築がほぼ終了するのは、大正14年のことである。校舎建築の経過は以下のようなものであった。
 
 大正11年 本館、生徒昇降口、寄宿舎、小使室
 大正12年 屋内体操場、舎監室、食堂、廊下、その他
 大正13年 普通教室、特別教室、寄宿舎、便所、その他
 大正14年 寄宿舎、洗濯場、住宅、物置、その他
 
 この結果、本校の規模は校舎1175坪(3878㎡)、寄宿舎611坪(2018㎡)に達した。また、この時講堂が建設されないまま当初の予算が削減されたため、以後、本校の「施設上須要の件」として講堂建設が挙げられることになった。予算削減の理由は、不況や大正12年の関東大震災などが県財政を圧迫したからと思われる。
 当時のカリキュラムが不明なので、大正15年6月20日付の「県立高女一覧表」の授業時数をもとに教科目を述べてみる。いちばん重要とされた修身は週6時間、校長が3・4年生に、理科と歴史の教諭が1・2年生に実施した。また、英数国理社の他に図画・音楽・裁縫が全学年、習字は1から3年に行われ、他に手芸・作法・家事・教育・法経といった科目があった。総授業時数から1ヵ年あたり30単位と思われ、教諭一人当たり15から23時間の持ち時間数であった。
 当時の生徒の卒業後の進路状況は、表2に示すとおりである。「家庭に在るもの」が多数を占めているものの、医学や薬学の専門学校や奈良女子高等師範学校へ進学した者もあり、限られた上級学校の中でのこの進学先は大健闘である。中でも官立の女子高等師範学校は全国に東京と奈良の2校しかなく生徒の向上心の強さが伺える。
 さらに、日課や行事にも目を向けてみよう。毎日始業10分前に朝礼が行われ、校長、教頭が訓話をしたとあり、その内の火木土の3日間は全員で体操をした。終礼も毎日実施された。また、課外運動、毎学期に1回の小運動会、秋季大運動会、さらに、詔書奉体作業、講演会、学芸会、音楽会、展覧会、活動写真教授等があり、これによれば充実した学校生活であったと思われる。
 


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(8)7泊8日の修学旅行

 大正12(1923)年5月下旬、4年生が箱根・鎌倉・東京に2泊3日の修学旅行に出かけた。これが、県立移管後の「学事年報」に最初に記載されている記録である。

 大正13年、行き先が関西方面に変更になり、日数も5泊6日と長くなった。また、15年からは、さらに日数が増え、7泊8日になっている。これは、往復に各1日ずつ要したためと思われる。

 県立に移管され、最初の入学者150名が、第4回卒業生として139名卒業したのがこの15年であり、当時は3クラスであった。それまでの修学旅行に比べ人数も3倍となり、1週間にわたる修学旅行は、生徒にとっても教員にとっても、大行事であったと思われる。残念ながらその様子を語る記録はない。

 また、当時の修学旅行の目的の一つには、神宮参拝があった。昭和7(1932)年度の「学校要覧」には、3年に「湘南地方及び多摩御陵参拝・3日」、1年に「東京方面・明治神宮参拝を主とす」と書かれている。当時の見学地には神宮参拝ばかりではなく宝塚も含まれていて、生徒たちは皆大騒ぎして喜んだらしい(『六十周年記念誌』)。

 以後、「修学旅行制限の通牒」が出される昭和15年まで、日数、方面ともに同じように実施された。

 
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(9)校歌の制定

 校歌が制定されたのは、昭和2(1927)年度のことである。この時国語教諭だった高山まさ(旧姓武藤)は、校内で募集した歌詞に思わしいのが集まらないと聞き、「いささか心に責められるものがあったので」、思い立って一晩で2つ作り上げたという。その中の1つが、職員会議で無記名投票の結果、絶対多数で当選し校歌となったのである。この校歌はその後現在まで実に70年余り歌いつがれてきたのであるが、高山まさは『六十周年記念誌』で次のように述べている。
 
  あの歌には苦吟のあとがありません。深い人生観照もありません。若い私が、若さに任せてやすやすと歌い上げただけの、それだけにもし賞めていただけるとすれば、すなおでのびのびとしているということかもしれません。本当に若いだけのうた、しかし歌って下さるのは若い人たちなのだから、それでいいのかなと心のすみで肯定する声もいたします。
 作曲は、音楽教諭であった千本延隆が担当した。千本は同じ『六十周年記念誌』で、「いたずらに新しきを求めることはやめて、地味でよい、落ち着いたこの歌詞にふさわしい感じを出そうとした」と述べている。校歌の作詞・作曲を担当した2人には、記念品として銅の手あぶり火鉢が1つずつ贈呈された。「校歌制定記念」と彫り込まれた銅丸火鉢は、校友会の予算が足りないとのことで、一対を2人で分けたのだという。
 

 
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(10)奉安殿の設置

 本校に奉安殿が作られたのは、昭和3(1928)年頃である。これに先立つ大正14(1925)年の「学事年報」に「施設上将来須要の件」として「御真影奉安所並びに講堂の建設」が挙げられており、この頃から建設の準備を進めていた模様である。保存されている資料にいつ作られたか明確に記載されてはいないが、昭和3年に同窓会で奉安殿建設のために170円29銭を寄付した記録がある。

 卒業アルバムの第1ページに奉安殿の写真が掲載されるようになるのも、4年3月のアルバムからである。 昭和3年11月10日に、昭和天皇即位の大典が行われたが、それに先立って本校には10月9日に真影下付があった。

 学校沿革の記述によると、6年1月にも「御真影奉戴」と「奉還」があり、時折真影の交換が行われた。 大正13年から昭和15年まで在職した菊池はるのは、真影下付の様子を『六十周年記念誌』で次のように述べている。
 
  御真影奉安殿が作られ、初めて御真影をお迎えした日、八丁台の沿道の両側に、全校生が整列して敬礼するその頭上に、降りそそぐ燦々たる陽光と、奉戴する車上の校長先生の純白の手袋とが、今でも鮮やかに印象されています。
 
 この真影下付は、当時の宮内省が官庁や学校に対して明治6(1873)年頃から始めていたが、奉安殿を作るなど徹底されるようになるのは、後年になってからである。近隣の学校では、土浦一高が明治43年に御真影奉戴式を実施し、下妻一高が大正4年、下妻二高が昭和3年に奉安殿を建設している。
 
 昭和3年6月付の「女学校一覧表」には、校内の北東部にその場所が示されており、生徒は奉安殿の定時奉拝と屹立敬礼を義務づけられるようになった。なお、この奉安殿は、20年12月に真影が回収された後、翌21年7月に取り壊された。

 
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第2章 1 茨城県立下館高等女学校として
(11)陸軍大演習と「蹕之碑」
 昭和4(1929)年11月下旬、水戸で陸軍の特別大演習が行われた。茨城・栃木・群馬の中等学校生2万人が、昭和天皇の親閲を受けたが、その中に本校の3・4年生も奉唱隊として参加した。



 「制服・校章と校旗」の項で述べたように、校旗を新調したのはこの時のことである。11月20日、水戸堀原練兵場(現茨大前グランド)に出向き、「菊の香高き……」と歌ったと『六十周年記念誌』には書かれている。本校にはそれしか記録が残っていないが、『為桜百年史』(下妻一高 平成9)には、その時参加した高女生徒の奉唱隊の位置なども図示されている。
 
 このような陸軍演習は、かなり頻繁に実施され、時には天皇の親閲もあった。明治40(1907)年11月19日、明治天皇が伊讃野に行幸の折にも、大演習が行われた。その際に天皇が座っていた所、つまり御座所跡に大正4(1915)年、記念碑が建立されたが、これが「駐蹕之碑」である。この碑は、当初は本館と寄宿舎の間、校内のほぼ中心に位置していた。昭和47(1972)年新校舎建築の際に現在地に移された。
 
 撰文は柴勝三郎、筆跡はこの時の枢密院議長であり、同時に元帥・陸軍大将であった山縣有朋のものである。高女時代は清浄な所として、教師も生徒も敬礼する習慣であった。

 明治天皇はその時、下館尋常小学校でもしばらく休憩したが、その部屋は聖域としてしばらく保存されたという。また、明治天皇はこの地を「伊讃美が原」と賞賛したとされる(『下館小学校百年史』昭和48)。

 現在、南東の門付近に存在感を持って立っています。
 写真をタップすれば、校長だよりにジャンプします。


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第2章 2 創立30周年を迎えて

(1)「質実剛健」という校訓

 念願の県立移管を達成し、次第に校内が整備されていく中で、生徒も教職員も生き生きと学校生活を送っていた。セピア色に変わった当時の卒業アルバムを繰ると、家庭的な雰囲気の漂う岡芹校舎前での記念写真が登場する。普段着姿から正装まで多種の服装をした教職員の写真説明には、小使や給仕の名前が入っている。力を合わせて広大な校地に苗木を植え、校歌・校章をともに作り、校庭の土ならしに汗を流し、春の嵐で汚れた教室の床にソーダ水をまいて磨いたりする日々の生活の中で、皆が結束したのは当然だったかもしれない。昭和5(1930)年に本校に赴任した時野谷貞教諭は、次のように回想している。



  「質実剛健」という横額が礼法室に掲げてあった。学校のモットーと聞かされた。男子の学校のような標語だと思った。しかし、鮮明な印象でもあった。誠実で飾り気がなく、そして最後の頑張りのきく校風がやがて私にもわかってきた。伝統というものであろうと感じた。
 
  このモットーとズックの鞄(カバン)が随分長い間本校の特徴だった(『六十周年記念誌』)。

 ズックの鞄は最近はあまり見かけなくなったが、肩からたすきがけ(斜めに交差させる)で背負う布製の鞄のことである。この鞄は通学だけではなく修学旅行や遠足にも使用されたようで、記念写真にも登場する。同教諭の回想によれば、関西旅行の際に「富山の毒消し売りと間違えられたというエピソードも生まれた」らしい。
 
 また、校訓の他に学年訓というものがあり、各教室に掲げることとして、昭和7年度と10年度の「女学校要覧」には次のように記載されている。
 
 1年  一心
 2年  奮闘
 3年  忍耐
 4年  実行
 補習科 不言実行
 
 この学年訓は、昭和14年度の「女学校一覧表」には記載されていない。そのかわり「教育方針」の第一に校訓とあり、「明るく、つよく、やさしく」になっている。このように校訓は時々変更があったようだ。
 
 また、本校正門の北側に「報徳碑」があるが、これは、昭和10年に当時の校長大瀧正寛の手により、「至誠勤労」「分度推譲」の文字が刻まれ、建立されたものである。
さらに、本校には現在体育館の正面右側に「日日新」という額が掲示されている。
これは、中山平治教諭が書いたものを、昭和55年、新体育館竣工に際して大島富夫(号丈雪)教諭が書き改めたものであるが、詳細は不明である。

現在は、下の写真のように掲示されています。


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第2章 2 創立30周年を迎えて

(2)砂運びとトマト栽培

 昭和6 (1931)年度の「学事年報」には、校庭整備のため勤行川岸から砂を運ぶ作業を実施したことが記載されている。これは、霜柱による校庭のぬかるみを防ぐのが目的であった。
 校庭には3年に100メートルの直線コースが作られていたが、その他の部分はまだ未整備であった。勤行川岸から学校まで一定の間隔で一列に並び、バケツリレーで砂を運んだのである。予定数をリレーし終えると「赤いバケツ」と称する赤いたすきのかかったバケツになり、生徒はほっと一息ついた(『六十周年記念誌』『八十周年記念誌』)。当時の就学年齢は13歳からであり、年齢の低い生徒などにはかなりの重労働であった。
 
 また、毎週火・木・土を作業日と決め、農園・花壇の作業を行った。全員が一箱ずつトマトを栽培し、「運動場の西側の土手に沿って何百のミカン箱が見事に並べられた」(『六十周年記念誌』)という。
 ある時、自由に収穫して良いとの噂が流れ、青いのまで取ってしまった生徒がいた。やがてそれがデマとわかり、慌てた生徒は糸でトマトを結んで元に戻そうとしたという。先生もその無邪気さに叱るに叱れず苦笑したそうだ。当時の厳しさと温かさを思わせるエピソードである。
 

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第2章 2 創立30周年を迎えて

(3)身体状況と保健衛生

 当時の高等女学校には、尋常小学校を卒業してからすぐに入学する者、高等小学校を1年修了してから入学してくる者などがいたので、在学者の年齢に幅があった。このため、身体的な状況にも特徴がみられる。
 身体検査項目が最も多かった昭和10(1935)年度を見ると(表3)、13、14歳の188名は体重の平均が40キロ未満であり、虫歯の者も多かった。また、当時流行していたトラホームの患者が62名にのぼり、その防止と治療のため、校内に治療室を設け、治療を施したとの記録がある。



 また、発育概評を甲・乙・丙で示し、甲208名、乙330名、丙97名となっているが、どのような基準でランクづけをしたのかは不明である。
 

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第2章 2 創立30周年を迎えて

(4)創立30周年の頃

 実科高女から20年、県立高女から10年を記念して、昭和7(1932)年11月5日に30周年の記念式典が行われた。この時の記録としては、「学校沿革」に「式典を挙行す」とあるだけで、詳細はまったく不明である。
 この頃の学校生活はどのようなものであっただろうか。昭和7年卒業の須藤ひろ子(高女10回卒)は、夏の勤行川での水泳訓練に、1・2年生は喜んで参加するけれど、3年くらいになると一学級5、6人の参加者しかなく、先生に無邪気でないと叱られたこともあると述べ、その理由を、「体操場から川までの道を水着姿で歩いていくのは何となくしんどい気がした」としている。さらに、初めてクラス会という時間ができたが、「不慣れな私共は一時間誰も発言せず」担任を困らせたと述べている(『六十周年記念誌』)。

 生徒達にとって、学校行事はなによりの楽しみであった。運動会、学芸会、講演会、展覧会などの現在とあまり変わらないものの他に、珠算競技会や茶摘みなど当時ならではのものもあった。

 本校における運動会の歴史は古く、第1回は実科高等女学校時代の大正8(1919)年まで遡る。木綿絣(かすり)の運動服を着用してのものであった。学芸会は冬に行われていたようで、13年のプログラムでは、「国語談話」「地理談話」「斉唱」「英詩暗諦」をはじめ、「理科実験」「家事実習」など特色ある演目が並んでいる。

 このように校内では平穏な生活が送られていた一方で、昭和7年といえば、上海事変、満州国の建国、血盟団事件、5.15事件、第一次満蒙移民開始と確実に戦争に向かって動いていた時代であった。翌8年には、日本は国際連盟を脱退している。
 

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(5)補習科の設置

 昭和10(1935)年度の「学校要覧」の沿革によれば、卒業生の指導のために、昭和6(1931)年6月から専攻科を開設したとある。しかし、それがどのような経緯で設置されたかは明らかではない。また、要覧にはこの専攻科についてはほとんど記載がなく、カリキュラム等の資料が残っているのは、県立の補習科になった10年からである。
 
 県内に補習科が設置されていたのは、わずかに3校であり、修業年限は1年、いずれも1学級(定員50名)である。昭和13年3月現在の生徒数は、水戸高女27名、土浦高女14名、本校28名であった。
 
 この補習科の設置は、大正13年に出された「本県高等女学校改善案」に基くものと思われる。この改善案では、次の二つが提案された。一つは「学科程度の向上」として、高女の修業年限を中学校同様5ヵ年とする案である。第二項目は県内に2校「2ヵ年課程の専攻科の設置」を求めるものであった。しかし、この提案は二つとも実現しなかったのである(『茨城県教育史』下巻 昭和35年1月)。
 補習科の定員は50名であったが、11年の卒業生は23名である。その後も募集定員が充足された年はなく、卒業生は毎年30名前後であった。
 
 授業は、昭和8(1933)年に建築された同窓会館の2階の教室で、また、科目によっては1階の和室で実施された。部活動も本科生と一緒に行い、規則上は他の女学校からも試験の上で入学を許可されていたが、ほとんどが本校からの進学者であり、新5年生といった存在だった。
 本校の補習科のカリキュラムは、修身2、国語3、数学1、家事3、裁縫10、教育1、体操2の基本科目22単位と増科目8単位の計30単位であった(「要覧」昭和10)。また、昭和12(1937)年度から一部の裁縫組、二部の教員志望組に分かれた。本校については不明であるが、「県立高等女学校学則」によると、二部は裁縫の単位数が少ない分、数学3、理科2と増え、教育が7単位である。また、二部の目的として、小学校教員養成と明記されている。
 
 このようにして補習科修了生が教育界で活躍することとなったのである。
 

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第2章 2 創立30周年を迎えて

(6)水害見舞いに布団制作

 昭和10(1935)年9月、県南地方は台風で大きな被害を受けた。この時、本校の生徒達は布団を手作りして被災地を見舞ったが、その様子が、校友会の中の組織である学芸部が作成した行事アルバム(昭和10年)にまとめられている。

 それによると10月14日、エプロンをかけ、手拭いや白い布を被り、マスクをかけた生徒達の1年から3年生が縫い、4年生が綿を入れたりといくつかのグループに分かれて布団作りに精出す様子が写っている。この布団制作は1日で終わったらしく翌15日には、完成した布団をうず高く積み、トラックの荷台に「県南水害地見舞慰問品県立下館高女」と書いた横断幕を付け、出発した。
 また、この頃下館は二つの大きな災害に見舞われた。昭和13年6月の洪水と、昭和15年5月の大火災である。その被害状況は『下館市史』に詳しいが、本校生徒のなかにも被災した者もいたと思われる。この時、本校生は衣類等の作製や「炊事奉仕」などできるかぎりの協力をしたのである。
 

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