5章

第5章
充実そして飛躍へ

1 変わりゆく母校    
 (1)プールの建設

   (4)特別教室棟の建設

 (2)新校舎の建設

   (5)新体育館の建設

 (3)恵幸会館の建設

   
     
2 充実する学校生活

   
 (1)教育課程

   (6)図書館の思い出とゆとりの時間  new

 (2)昭和50年代の学校生活

   (7)様変わりする修学旅行  new

 (3)昭和40~60年代の進路

   (8)恵幸祭への改称と体育祭との交互開催  
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 (4)夏服制定へ  new

   (9)学校行事  new

 (5)リーダー講習会と生徒会誌『みち』

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(10)「PTAだより」の発刊  new



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第5章 1 変わりゆく母校

(1)プールの建設

 市民プールも、スイミングスクールもなかった頃、本校生徒が手軽に泳げる場所はどこにもなかった。そのため学校プールの建設は長年の懸案であった。

 昭和40(1965)年、プール建設が認められた。既にその役目を終えたものの、1棟だけ残されていた寄宿舎とその前の梅園をつぶし、同年12月9日工事が始まった。

 プールの大きさは縦25m、横16m、深さ1.2mで7コースが作られ、付属の建物として、浄化機械室、トイレ、足洗い場、シャワー、更衣室、教官室等も設けられた。昭和41年7月5日、プール竣工の式典がプールサイドで行われた。「式典のしおり」には工事概要が記されており、41年1月着工、6月末竣工、工事総額は約1023万円であった。そして無事故を願っての神事と、男女2名による模範水泳が行われた。

 プール完成後、二高生皆泳を目標に水泳の授業が始まった。プールができる前、泳げる生徒は10%程度であったが、プールができてからは80%の生徒が泳げるようになり、その効果はすぐに表れた。

 本校のプールは、県下でも非常に早い建設であった。それまで泳ぐ場所に恵まれなかった本校生徒は、このプールの完成を喜んだ。放課後、希望者に解放されたプールで泳ぐ生徒も多かったのである。

 プールに関連した施設はその後何度か改装・改修が行われたが、中でも平成6(1994)年、ブライトホール建設に伴う改修は大きく、更衣室はプール西側から現在の北側に移された。

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第5章 1 変わりゆく母校

(2)新校舎の建設

 昭和40年代から50年代にかけては、高度成長期とその後の安定期の時代にあたる。この安定した経済成長を背景に、全国で高校入学者の増加に備えて学校が新設されたり、木造校舎を永久校舎に建て替えたりといった、新校舎建設が相次いだ。

 古い卒業生の思い出に「ピンクの校舎」がたびたび登場する。この木造校舎は、建設当時八丁台の丘に立つ瀟洒な建物で、下には勤行の流れを見、彼方には筑波山や加波山を見て、美しい景観の一角を作っていた。しかし、その校舎も築後40年ともなると、木造建築の風格がでてきた一方で、老朽化もかなり進んでいた。

 全国的な教育設備近代化の波を受けて、本校でも第13代校長目黒敏夫の昭和37(1962)年頃から、校舎建て替えの話が出始めた。建て替えるとはいっても、現在とは違い、必ず地元負担金があった時代である。第14代校長菊地真一の42年頃から資金を集め始め、少しずつではあるが新校舎建設に向けて動き出した。これを受けて、校舎の青写真は第15代校長小島武保の44年頃にでき上がり、一気に建設に向かうことになった。
 昭和45年工事に着手、新校舎は旧校舎の一部をとりこわして作られることになった。旧校舎は工事の邪魔にならない限り、そのまま残しておくという形をとるものの、仮校舎は必要であった。そこでみかげ会館の西側にプレハブの仮校舎が作られた。夏は暑く冬は寒いというプレハブ校舎の中で、一部の生徒が新校舎の完成を待つことになった。また、グランドは仮校舎のため狭くなり、2年間は体育祭を行うことができなかった。

 新校舎は昭和46年に完工、翌47年7月には、新校舎完成後すぐ建設が始まった管理棟も完成した。これら2棟の永久校舎完成と創立70周年を記念した式典が同年10月7日に行われ、校舎建設に功労のあった人々や企業に感謝状が贈られた。

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第5章 1 変わりゆく母校

(3)恵幸会館の建設

 第4章で述べたように、公的財政の貧困さを補い、学校設備充実を援助するPTAの活動は学校にとって不可欠のものであった。昭和40年代に入っての永久校舎の建設に至ってもPTAの承認や協力がなければ実現できなかったのであり、これらの建設には当時の父兄が持っていた学校教育への熱意と期待が感じられる。
 昭和46(1971)年になると、新校舎建設2年目の地元負担金が県費負担になり、予定していた3000万円余りが浮くことになった。この資金は、関係市町村、同窓会、PTA、篤志家からの寄付金ということもあって、協議の結果、特別教室設備費に廻そうということになった。しかしこの時特別教室建設の目途はまだ立っていなかったことから、50年、宿泊施設を建設してはどうかという案が出された。
 それまで合宿に使われていたのは古い木造校舎にあった礼法室であった。床の間つきの格調高い部屋で、礼儀作法を身につけるにはふさわしいが、合宿向きの部屋とはいえなかった。衛生状態も極めて悪く、ノミやねずみまで出る始末であった。思わぬ余剰資金の発生で、この状況を解決するために宿泊施設建設案が出され、決定された。
 
 6月、宿泊施設建設が決定するとすぐに、PTAと学校とが他校の施設を見学したり、設計図を集めたりと、建設に向けて動き出した。9月末には建設地を旧校長公舎跡と決め、2階建て、約105坪の建物にするということになった。翌年1月の完成をめざし、11月の地鎮祭を経て、工事が始まった。翌51年1月20日にはほぼ予定通り、同窓会館を兼ねた恵幸会館が完成した。大きさは340.2㎡で一部に同窓会室を設けている。恵幸会館は、改修をしながら、現在も合宿所として使われ、夏休みなどは連日使用されている。


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第5章 1 変わりゆく母校

(4)特別教室棟の建設

 昭和53(1978)年、長い間望んでいた特別教室棟の建設が、創立80周年との関連もあって決定した。

 特別教室棟は3547.66㎡で、55年3月19日に完成した。

 この特別教室棟の中には理科や家庭科や芸術科の教室の他にいくつか特徴ある教室が設けられた。その一つは1階西側奥に、32畳もの和室が作られたことである。この部屋は旧校舎にあった礼法室に代るものとして設けられ、床の間つきの本格的和室で、南側には廊下と付属の部屋として8畳の茶室や水屋もつけられている。さらにこの部屋の南側には日本庭園もあり、この空間は本校の中でも独特の雰囲気と落ち着きが感じられる所である。現在礼法室は茶道部がその活動で使用している。

 二つめは3階の図書室とそこに設置された書庫である。図書室は従来からあった独立図書館より少し部屋が広くなり、ここに以前にはなかった書庫が作られた。以来、ここには貴重な本や資料が保管されることになった。

 三つめは4階の視聴覚室と多目的に使える講義室の設置である。視聴覚室は、その頃増えつつあったビデオなどの視聴覚教材を使った授業に役立てるため、モニターテレビや映写室といった設備を備えていた。映写室には視聴覚機材も入れることができた。また、本校の校舎のなかには多くの生徒を収容し、多目的に使用できる施設が不足していたため、そのための講義室が作られた。

 この視聴覚室は、設置後しばらくは授業の際に利用されたが、その後いくつかの特別教室にビデオが備えられたため、近年はもっぱら放課後吹奏楽部の練習室に使われるようになっている。また講義室も、選択の授業で教室として使われたり、学級増で会議室が教室に使われた時には会議室として使用されたりと、その年の事情でさまざまに使用された。

 現在はコンピュータ室となり、1クラス分のパソコンが入れられている。
 

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第5章 1 変わりゆく母校

(5)新体育館の建設

 特別教室棟と並行し80周年記念事業の一環として、生徒棟西側に隣接し講堂兼新体育館も建てられることになった。新校舎に続いて、本校の建物も一新されることになったのである。
 
 昭和54(1979)年建設が始まった新体育館は、それまでの体育館の約1.5倍の2009.32㎡で、バスケットボールコートが2面とれる大きさであった。この新体育館は同年10月22日に完成した。
 このように昭和54年には、前述した特別教室棟と体育館の工事が並行して行われたため、騒音や不便さに悩まされることになった。またこの工事のため、53年度卒業式と54年度入学式は下館市民会館で行われた。創立以来、本校が他の催しに使われることはあっても、学校の一番重要な行事が外部の施設で行われたのは、初めてであった。ある意味で当時の生徒達にとっては思い出になっている。
 
 これら2つの建設にあたっては、創立50周年記念事業として作られた講堂と図書館がさらに壊されることになった。また完成の際には、新校舎建設の折にも残された本館はじめ、付属の木造建築物はすべて取り壊され、その跡はグランドや自転車置き場に生まれ変わった。平成2(1990)年3月には第二体育館(592㎡)も建設された。昭和34年に建設された体育館はこの時取り壊された。
 こうした建設のため、かつていたる所に見られた桜、こぶし、ザクロ、ヒマラヤ杉などの木々も、ほとんどが伐採されたり、場所を移されたりと大きく変わった。ただ旧講堂近くにあった2本の大銀杏だけは、そのまま元の場所に残された。とはいっても、枝をほとんど切り落とされ、幹だけが残されたにすぎず、かつての大銀杏の面影はどこにもない。生徒棟の北側隅で大きな身を縮めるかのように、気付かれないような姿で生きている。

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第5章 2 充実する学校生活

(1)教育課程

 現在は、10年に1度、学習指導要領が改訂され、それに伴って教育課程も変更されている。昭和43(1968)年の改訂ではそれほど目立った点はなかったが、53年の改訂では「ゆとり」ということが大きくうち出された。
 
 そのため卒業に必要な単位数が、それまでの85単位以上から80単位以上に、必修科目の単位数も13科目47単位以上から8科目37単位以上(女子の場合)というように減少した。また「ゆとり」とは別に、習熟度別クラスを作ることもよい、ということになった。
 教科毎に見ていくと、社会に「現代社会」という科目が作られ、国語では「国語Ⅰ・Ⅱ」が、理科でも「理科Ⅰ」が新たに作られて、総合的に学習する科目が作られたことが特徴であった。
 
 これを受けて本校でも、実情に合わせて教育課程が作られたが、卒業までの単位数は102で従来と同じだった。ただ指導要領を受けた「ゆとりの時間」として、特別教育の時間が1年次に1単位新たに設けられた。職員会議を経て決定された時間であったが、積極的具体案が出ず、一部の教科や部で担当することになった。中でも図書部は年間時数35時間の半分に近い16時間を受けもつことになった。
 
 この時「ゆとりの時間」に取り組んだ高校は少なかったのだが、本校ではこれにすぐ対応した教育課程が組まれたのである。しかし、この「ゆとりの時間」は長続きせず、始めの4年間で終わった。
 ところでこの指導要領が公示されたとき、直接に影響を受けるはずのない在校生の反応に面白いものがあった。まずは「習熟度別クラス」というものへ敏感に反応した様子が伺える。「劣等感に苦しめられる」「エリート意識が強くなる」「理解が早く、記憶力に強い人ばかり陽が当たる」「どのような形でも能力別は反対」と否定的意見が多数だった。しかし、中には「わからないのに我慢してつらい思いでいるより、ていねいに教えてもらった方がよい」というものもあった。
 
 必修科目については女子だけ1科目多いのは不公平、男子も家庭科をやるべきだという意見が圧倒的に多かった(「恵幸」120号)。当時は女性の社会進出が進み、男女雇用機会均等法が制定されようとしている頃である。「男子も家庭科を」という本校生の意見は当然のことであった。
 
 このように生徒が心配し、嫌った習熟度別クラスは本校では実施されなかった。また男子の家庭科履修については、平成元(1989)年の指導要領改訂による教育課程で実現することになった。本校でも5年から男女共学になり、間もなく男子の家庭科履修が始まった。「男女が協力して家庭生活を営むため」という家庭科の目標に向かって進み始めたわけである。


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第5章 2 充実する学校生活

(2)昭和50年代の学校生活

 昭和50年代に入り、40年代の学生運動に力を注いだ若者とは全く異質の若者の出現が、何かと話題になり始めた。これらの若者達の「無関心、無感動、無気力」のいわゆる「三無主義」がマスコミで盛んに取り上げられる一方、教育界でもこれを問題視するようになった。小さい頃から欲しい物は何でも手に入り、自分から求めなくても与えられて育ってきた結果といわれている。
 
 昭和54(1979)年と56年、卒業を間近に控えた3年生に対する出版委員会のアンケートがある。54年のアンケートでは、「高校生活で感動したことや熱中したことは何か」という問いに対し、約半数が「ない」と答え、56年のアンケートでは、「高校生活が充実していたか」という問いに対し、約6割が否定的回答をしている(「恵幸」122号、128号)。これらの回答からも、本校生にも当時の若者達と同様「三無主義」の傾向が伺える。
 しかし、一方では、約半数の生徒は高校生活で何かに熱中し、何かに感動を覚え、充実していたとふり返っているのである。部活動一や学校行事、ボランティア活動などに熱中し、それらの中で感動を味わっている。また友人との関係や、講演会の話、映画や本などに感動したという者もいれば、手芸に熱中したという者もいた。
 
 このように、昭和50年代から60年代は、若者達に「三無主義」が蔓延し、本校にもこのような生徒達が存在する一方、積極的に高校生活を送った生徒達も多数いた。さらに積極的に、日々努力を積み重ね、インターハイや国体に出場した運動部もあった(第2部参照)。

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第5章 2 充実する学校生活

(3)昭和40~60年代の進路

 第4章では昭和25年から30年代の進路について触れたが、ここでは同様に40年代から60年代の進路について見てみよう(表8)。
 昭和40年代の進路指導担当教諭の言葉によれば、「自己の生き方の展望と自己の希望する職業の社会的役割の認識を深めておき、付和雷同しないこと」(「恵幸」)が進路決定において重要であるといい、50年代には「自分の進路を長い人生の中で見つけ、判断、計画する必要性」を説いている。
 昭和20年代の「献身的努力型」の職業人の育成といった表現や、30年代の変化する社会へ対応しうる態度を身につけるべきといった主張は、少しトーンダウンし、より自分自身のための進路決定の重要性が説かれるようになったといえる。
 
 昭和50年代になると、進学する生徒たちの目的もしっかりしており、将来役立つ技術、資格を習得したいと願っている生徒が多く、専修学校や各種学校の希望者が急増している。就職する生徒には、通勤に便利で不況に強いという理由から、公務員希望者が増加している。

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第5章 2 充実する学校生活

(4)夏服制定へ

 昭和48(1973)年、新年度が始まると生徒会本部が夏服改正に動き、6月には生徒27名、教諭9名、生徒会本部役員6名からなる夏服改正実行委員会が発足した。この委員達が「着やすく、美しく、二高生らしい夏服を」目標に、それぞれ役割を決めて動いていったのである。
 
 6月末から7月初めにかけて、ジャンパースカートについての賛否と、具体的反対意見の調査があった。この時、どのような経過でジャンパースカート案が出されたのか、またそれに対するアンケート結果がどのようなものだったのかは、残念ながら不明である。ただ、このアンケート結果を受けて、運営委員が原案を作成し、実行委員がクラスに報告、そしてクラスの意見をまとめるという形をとって夏服は決定されることになった。
 実行委員会が作られてから夏休みまで約1カ月しかなかったが、その間に生徒の投票結果まで出せた。夏服制定への生徒達の熱意が伝わってくる速さであった。しかもこの夏服は、この時真剣に取り組んだ生徒達自身は着ることがない。生徒達の心の中にあったものは「夏服を何とかしたい」という思いと、「今、あなた達の着ている制服は、私達が改正した」と後輩へ誇りたい思いだったという。
 
 9月になってデザインが決定、布地の質と色の選定が行われ、49年度からこの夏服が着用となった。この制服を決めた先輩達は、「みんなの手で練りに練った制服だから後輩達に不満はないだろうが、やがてこの夏服も時代の流れで新しいものになるだろう、その時は新しい制服に包まれる人間も変わってほしい」と期待した(「恵幸」110号)。
 
 緑の夏の制服は、それ以来二高生の夏服としで慣れ親しまれてきたが、昨今の猛暑という事情から、平成9年度入学者までが着用し、その後の入学者からは、再び冬服の上衣を脱ぐという夏服になった。

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第5章 2 充実する学校生活

(5)リーダー講習会と生徒会誌『みち』

 リーダー講習会とは、停滞気味の生徒会やホームルームを少し揺り動かし、その活動に活気を与えようということから、いくつかの学校で行われていたものであり、本校では昭和59(1984)年から始まった。

 第1回は9月下旬、2泊3日で行われ、参加者は前後期の生徒会役員と各ホームルームの代表者で、46名であった。

 初年度のリーダー講習会の総括誌「リーダー講習会の反省」によると、その時は、テーマ毎の話し合い、校内でのレクリェーション、笠間まで出かけてのオリエンテーリングと変化に富んだ日程であった。この日程から見る限り、親睦会の意味あいが強いものだったようだ。しかし、講習会の重要な部分は話し合いということにあり、この時のテーマであった「友人について」と「クラスの諸問題」とを6つの班に分かれて行った。

 この講習会に顧問として参加した教諭榎戸和也は生徒達の話し合いを見て、「マジなことはダサイという現在の風潮の中で、本音で話すことのすがすがしさを感じた」と評価している。また、前期生徒会副会長であった鈴木こずえ(二高38回卒)は「この話し合いでは話し合いをうまくすすめ、まとめるということを学んでもらおうというのがねらいだった。またHRの問題をみんなで考えようというのもねらいだった。その両方が達成できてよかった」と非常に満足した思いを記している。

 リーダー講習会は、しばらくの間2泊3日で行われていたが、やがて1泊となり、現在は土曜日の午後を利用して半日で行われている。

 リーダー講習会が始まった2年後の昭和61年、生徒会誌『みち』が創刊された。この時の生徒会顧問は宮川正憲教諭で、『みち』という誌名は生徒会役員だった小林美江(二高40回卒)と吉野智香子(二高40回卒)の発案でつけられた。『みち』という名称には、本校が歩んできた道を振り返り、その上でこれからも未知の世界に向かって、自らの道を作りながら進んでいきたいという願いが込められている。

 『みち』は毎年3月に発行され、その年の生徒会活動や学校生活を伝えることを目的にしているため、クラス紹介や学校行事、各部各委員会の活動等1年間の活動が多方面からしっかりと、時には若者らしいくだけた調子で書かれている。卒業間近の発行であるため、卒業生へのメッセージもあった。

 生徒会や学校の様子を伝えるものとしては学校新聞もあるが、年2回(現在は1回)の発行であったため、伝えられる部分は少なかった。しかし、これに加えて『みち』が発行されたことで、生徒会関係活動はほとんど網羅されるようになった。


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第5章 2 充実する学校生活

(6)図書館の思い出とゆとりの時間

 図書館で過ごすことが正規の授業に組まれた時期があった。昭和57(1982)年から61年にかけて、1年生対象に1単位の特別教育活動「ゆとりの時間」が設けられたときのことである。本校ではこの32時間のうち12時間が図書館の時間として使われた。
 
 図書館のオリエンテーションから始まって、次に各自が自分の読書計画を立て、高校生になってから読んだ本をまとめ、最後に1冊をとり上げて感想文を書くという授業計画を作り、それに従ってこの時間は進められた。
 
 図書館 オリエンテーション風景:左(令和2年度)  七夕企画:右(令和2年度)

 ゆとりの時間に書かれた感想文には、当然のことながら生徒の数だけの感想があり、さまざまな読み方が記されていた。中には昭和58年の大森美代子(二高38回卒)の『白雪姫』のように本の普遍性に迫るような感想文もあった。大森は子供のころ読んだ童話を押し入れの奥から偶然見つけ、読み返すうちに、幼いころの自分を、そのころ感じたことを思い出し、高校生になった今読んだときの感想と比べるということをしている。同じ本でも年齢によって、読み方感じ方が違うことに気づいている様子が伺える。また、昔読んだ本は忘れかけていた遠い記憶のアルバムのようだとも書いている。
 
 また昭和60年には『図書館』という教科書も作られた。「なぜ読書が必要なのか」「読書の質の向上のためには」「本を選ぶ基準」「読書感想文の書き方」など、読書について広く、わかりやすく記されたものであった。

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第5章 2 充実する学校生活

(7)様変わりする修学旅行

 昭和39(1964)年は、東京オリンピックが開催された年であった。開会式が行われた10月10日は快晴で、代々木の国立競技場に集まった人々は、スポーツの祭典に熱狂し、カラーテレビが大幅に普及した。新幹線が開通したのもこの年である。その翌々年の41年、本校でも、新幹線を利用した最初の修学旅行が実施された。
 また、昭和51年、それまで3年生で行われていた修学旅行が2年生で実施されるようになった。そのため、51年は修学旅行が二度あった。4月23日から3年生の前班、同24日から後班、さらに11月6日から2年生が、1日目は分宿であるが同一行動で、いずれも4泊5日の修学旅行を行ったのである。それまでは、四国や奈良を見学するコースが主であったが、この2年生から広島の平和公園が見学場所に加えられた。
 
 2年生で修学旅行を実施することにした理由について、「PTAだより」創刊号では次のように説明している。
 1 5月実施は、授業が軌道にのりだした時で、この時の旅行は学習のペースを乱す。
 2 連休が前にあり準備が多忙。
 3 各運動部の大会集中時である。
 4 2年生の秋に実施したほうが、クラス替えの問題がなくなる。
 
 このように、最初の昭和51年は、2年生で412名の同一行動で行われたが、移動等に多少無理があったらしく、翌52年には、今までのように1日ずらして、前班と後班に分けて実施している。
 
 さらにこの年は、宿泊数を1泊減らして3泊4日とした。その理由については、「PTAだより」第2号に端的にこう述べられている。「何故1泊減らすのか。経済的理由が一つ。次に奈良、京都以外は観光的色彩が強い。加えて中学で関西旅行をした人の割合が、20%未満のためである。」このようにして奈良、京都中心の3泊4日の修学旅行が、2年生の10月上旬に実施され、以後現在まで、宿泊数・時期等が踏襲されている。
 昭和53年には、行き帰りの新幹線をずらすなどの方策をとりつつも、再び基本的には同一行動になった。また、57年からは、見学地に広島を入れることが定着した。初めて広島の原爆資料館を見学した生徒は、その感想を次のように述べている。

 広島から神戸京都など、めったに行けない場所なので、とても思い出に残りました。なかでも広島の平和公園が一番強く印象に残りました。戦争で罪もないのに死んでいった人たちの写真や、持ち物などが、その当時のままに、展示されてあるのを見て、もう二度と戦争なんかおきてほしくないと思いました。(「恵幸」137号)
第5章 2 充実する学校生活

(8)恵幸祭への改称と体育祭との交互開催

 昭和40年代に入ると、これまでの文化祭の内容をマンネリ化ととらえるような見方も出てきた。さらにクラブ発表がおざなりになっているという批判もあった。演劇会場や展示会場より、食堂、売店などに人気が集中することを危惧する声もあった。
 
 昭和41(1966)年、初の試みとして、2日間の校内文化祭が開かれた。これはマンネリ化を打破しようとする一つの表れであったかもしれない。内容は今までの展示、学芸、音楽会と同じであったが、文化委員会が主になって運営、つまり生徒が行った文化祭だったということ、外来者がなかったので落ち着いた文化祭になったということなど、満足したという声が多かった。
 昭和46年、これは校舎が新しくなった年でもあるが、この年から文化祭が「恵幸祭」という固有名詞に改められた。名前の変更とともに内容もだんだん変化して、食堂や喫茶などのいわゆる模擬店やバザーなどが増加し、展示・発表が激減した。生徒のアンケートでも、期待する内容の1位は模擬店、2位がお化け屋敷、3位がバザーといった具合である(「恵幸」127号)。
 昭和53年の「恵幸」119号で、当時の校長長須賀孝(第18代)は「最近の文化祭は、文化祭という普通名詞を使わないで固有名詞を使う傾向が非常に強いと思う。そういうことから考えると、それぞれの学校がそれらの特色や個性を多分に盛り込んだ祭典をくり広げなければいけないはず」と述べている。
 
 文化祭の名称を「恵幸祭」と変えた頃から、文化祭の「文化」に重点が置かれていた時代は終わり、「文化」の文字の消滅と共に、文字通り「お祭り」へと変化したようである。
 こうした一方で、昭和40年に、「文化祭と体育祭を交互にしたらどうか」「3年に1度くらいにしたらどうか」「毎年の文化祭は無意味」という声があがった。体育祭は、すでに38年から1年おきの開催となっていた。1年のうちに文化祭と体育祭という2つの大きな行事があると、生徒の生活が落ち着かないというのがその理由とされた。

 しかし、運動会だけが1年おきであったため、実際は文化祭と重なることも多かったのである。校内での建設が続いたためか48年から51年までは体育祭が中断されたりもした。結局は54年から、恵幸祭と体育祭が1年おきということになり、55年に3年ぶりの恵幸祭が行われた。そしてこの交互開催は63年まで続けられた。
 

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第5章 2 充実する学校生活

(9)学校行事

 昭和26(1951)年から30年代に復活、あるいは始められたが、各種の事情で消えていった行事がある。

[スキー教室] 昭和35年~平成8年
 スキー教室は冬の自然の中での野外活動を通して自然に親しみ、スキー技術の向上と体力の増進をはかりながら親睦を深めるという目的で始められた。参加人数は例年50名から80名位で、3泊という年もあったが、ほとんどは4泊5日の日程で、蔵王坊平スキー場で行われた。

 参加者は雪の上での緊張感や、自分の思いのままにならないことに苛立ちを覚えながらも、帰るまでには何とか滑れるようになった。そして、滑れるようになると、何もかも忘れて、滑ることだけに心を集中し、スキーは楽しいと感じ、スキーを満喫した(「恵幸」82号)。

 降雪のため、会場到着が大幅に遅れたこともあったり、暖冬のため、春休みに変更になったりしたこともあった。30年以上続いた行事であったが、だんだん参加希望者が減少し、平成7(1995)年12月には103名が参加して行われたが、翌8年が最後となった。

 また、生徒の希望によって昭和40年スケート教室も始まった。塩原で日帰りということもあってか初回には172名もの参加者があった。その後、理由はわからないが、2、3年で消えてしまった。

[水泳大会] 昭和44年~平成3年
 水泳大会はプールが完成した3年後に始まった。クラス代表者によって、本来のコース(25m)や横(16m)を泳いだり、リレーで順位が争われた。他に「宝探し」とよばれた、水中で色鮮やかに彩色された石を拾うという競技もあった。単調になりがちなクラスマッチの水泳にいろいろの工夫があったことが伺える。
 
 しかしグランドの競技と違って、プールサイドでの応援がむずかしく、応援は管理棟屋上からであったため、「高見の見物」というような形であった。水泳大会が廃止された理由のひとつにはこうしたこともあったが、最大の理由は代表者が決まらないということであった。マラソン大会と同じように、水泳も生徒に人気がなかった行事であった。

[宿泊学習] 昭和45年~50年
 2年生の新学期、2泊3日の日程で2クラスか3クラス毎に実施された。実施時期は3年生の修学旅行と同じ時で、裏磐梯国立青年の家を利用することが多かった。青年の家を利用しての宿泊学習は、各地で盛んに行われた時があったが、本校のそれも同じ時期であった。自然の中で集団生活をしながら、集団の規律を身につけられることが宿泊学習の利点であろう。

 しかし、昭和51年に恵幸会館が作られると、そこを使って宿泊学習をするということで、青年の家での宿泊学習は行われなくなった。しかし、実際には恵幸会館での宿泊学習は一度もなかった。

 その他にある一時期次のような行事も行われていた。
 [ホームルーム対抗新聞研究会]
 [ホームルーム対抗合唱コンクール]
 [追羽根大会]
 [卓球大会]
 [競歩会]
 [夏期作品展]
 

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第5章 2 充実する学校生活

(10)「PTAだより」の発刊

 PTAの役員達が大会や研修旅行に参加し得るものがあっても、一般の会員にそれらを報告する機会はほとんどなかった。また学校の様子や学校が望んでいるもの、会員の声などを伝える手段もなかった。そこで、PTAが行っている活動や学校の様子を広く会員に伝えるため、PTAが発足して25年を経た昭和50年、広報紙「PTAだより」が発刊されることになった。
 第17代校長勝村恒雄はその創刊号で、以下のように述べている。「大量の情報は、情報の寄せ集めに巧みになり、借り物の意見に陥る危険性があるとは言っても教育に情報は必要である」。PTAの発足当時とは事情も変わり、情報の必要性は社会のあらゆる場面で叫ばれていた。PTAももちろん例外ではない。「PTAだより」の発刊には、このような背景があった。さらに勝村は「PTAだより」が会員の本音での意見交換の場となり、質量ともに充実していくようにと、この広報紙への期待が大きいものであることを記していた。
 
 この時PTA会長であった浜野正も、会の活動内容を伝えたり、会員の声を他の会員に知らせるために、最もよい方法であると、この広報紙の必要性を綴っていた。
 
 「PTAだより」の編集は保護者から選ばれた広報委員と係教員双方の手によってなされ、現在年2回発行されている。


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