避難場所

令和2年10月13日(火)
今回は、「避難場所」と「避難所」についてお話しします。
昨今、台風が異常に発達し本州に迫ることが多くなっています。


筑西市では、大規模災害時の指定避難所(29箇所)及び指定緊急避難場所(126箇所)を下記のとおり指定しております。

本校周辺の施設を紹介します。

指定避難所
・災害の危険性があり避難した住民が、災害の危険性がなくなるまで必要な間滞在するための施設
・災害により家に戻れなくなった住民が、一時的に滞在するための施設
下館中学校,下館北中学校,下館南中学校,下館西中学校など市内中学校
 河間小学校,五所小学校,伊讃小学校,下館小学校,川島小学校
 大田小学校,
竹島小学校,嘉田生崎小学校,養蚕小学校,中小学校など市内小学校
 赤字は、先行して開設する施設です。
 市内の中学校は、すべて先行開設になります。

指定緊急避難場所
・災害が発生し、又は発生するおそれがある場合にその危険から逃れるための避難場所
下館第一高等学校,下館第二高等学校,下館総合体育館
 幸町コミュニティセンター,川澄ふるさとコミュニティセンター
 妙西寺,光徳寺,星宮寺,定林寺,中館観音寺など

 本校のような指定避難場所は、危険性がなくなり次第、閉鎖されます。

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KEN HIRATSUKA

KEN HIRATSUKAをご存じでしょうか?

世界的な石の彫刻家、平塚健一さんです。
彼の作品が、本校にあります。
体育館南側、特別棟との中庭に「昭和62年度卒業記念」のプレートと作品が展示されています。
プレートは、なかなか発見できませんよ。

平塚ケン(通称)さんは、筑西(下館)市出身。高校時代、私の2つ上の学年。
1982年東京武蔵野美術大学卒業後、ニューヨークへ移住したそうです。
彼の作品は、石や歩道のタイルに1本の線を刻んでいくスタイル。
寄贈された昭和63年は、1988年。
ちょうど、ニューヨークでも人気が出始めた頃です。


本校へは、3石、寄贈されました。
現在もニューヨークを中心に、世界中の地面と岩を掘り続けています。

彼は、自身の作品を「fossils of the moment(今の時代の化石)」と呼び、それらは現代と古代を包括し、地球上の普遍的言語を介した人間のコミュニケーションの象徴である、と評しています。

本校の作品は、どういう思いを込めて制作したのでしょうか?

KEN HIRATSUKAの公式ホームページは、こちらです。
https://www.kenrock.com/

彼の作品は、東京の原美術館を始めおおくの美術館で展示されています。


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五輪への道

下館二高東側へ降りると勤行川のサイクリングロードが現れます。
この土手沿いの道路は桜づつみと呼ばれており、近隣住民のウォーキング、サイクリング、犬の散歩や中高生のランニングコースでもあります。朝早く歩いてみると「ここは勤行川銀座通り?」と思えるぐらいウォーキングしている方がいますよ。


サイクリングロードのスタート地点は、この桜づつみの標識あたりです。
ここから勤行川上流に向かって栃木県境まで5.5kmあるので結構歩きがいあります。
スタートラインからおよそ300mほど行くとこのような大きな石碑が現れます。


これは、本校出身のオリンピック競歩川崎真裕美選手を讃えた石碑です。

それと風力・太陽光発電を装備した照明灯設置記念も兼ねてつくられたものです。
でもこのあたりは結構暗いので、明るい内に見に行った方が良いですよ。


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牧先生石碑
下館駅から二高方面に歩いてくるとちょうど中間地点に下館小学校があります。
写真の石碑は、下館小学校正門から入って体育館手前に建立されています。
道路からも見て分かりますので、本校の初代校長にお会いしてみるのもいいのではないでしょうか。
牧正寛氏は、下館尋常小学校の初代校長であり、本校の私立時代から修身(今で言えば道徳)と国語を1週間に2時間教えに来てくれていたそうです。
その後、設立3年目に下館町立裁縫女学校となり、羽黒神社南の下館ケアセンターそよ風あたりに場所を移転。
当時の下館尋常小学校は、現在の羽黒神社公園のあるところに設立されていました。
このころは、まだ羽黒神社の坂道はなく、土地が続いており、尋常小学校とは、いわばお隣さん。
牧校長先生は尋常小学校と本校の校長を兼務しました。
公立時代の校長としては、初代校長になります。

ちなみに参考までに...
私立時代を含みますと牧先生は、2代目になります。
私立の初代校長は、東京からお招きした女性校長の逸見とも先生でした。
下の写真をタップすると関連記事に飛びます。↓
この初代校長逸見とも先生は私立時代の2年間(校長)と町立に移管してからの7年間(教諭)、本校教育に携わりました。授業は、裁縫を教えたそうです。
報徳碑
本校正門入ってすぐ右、屋外時計の足もとに「報徳碑」はあります。
ひっそりとしかし存在感を持って佇(たたず)んでいます。


この碑は、昭和10年に当時の校長大瀧正寛の手により、「至誠勤労(しせいきんろう)」「分度推譲(ぶんどすいじょう)」の文字が刻まれ、建立されたものです。

二宮尊徳は、この考え方を柱としていました。
尊徳(1787年~1856年)は、現在の神奈川県小田原市に生まれ、江戸時代後期の天明・天保の大飢饉で疲弊した数多くの藩や村を、徹底した実践主義により復興させた農政家です。

下館藩でも、天保の大飢饉などで苦しんでいた家老たちが尊徳に教えを請い、救われた経緯があります。

尊徳の教えは、「報徳思想」として知られています。
道徳と経済の調和・融和を図る考え方。
私利私欲に走らず社会貢献すれば、やがて自らに還元されると説いています。

尊徳は「至誠 勤労 分度 推譲」を考え方の柱としていました。
意味は...
 ①感謝と真心をこめて、地道に努力(至誠、勤労)
 ②適正な度合いを設けて、計画的な暮らし(分度)
 ③生まれた余力を、未来の自分と他者のために(推譲)

今の時代にもちゃんと通じますね。
礼法室
本校の特別教室棟の中には理科や家庭科や芸術科の他に、本校の伝統を感じさせる特徴のある教室があるので紹介します。
特別棟1階西つきあたり。この部屋はそこにあります。
昭和55年に現在の特別棟が新築される時に、旧校舎にあった「作法室」に代わるものとして32畳の和室が設けられました。
現在は「礼法室」と呼ばれています。
床の間付きの本格的和室で、独特の雰囲気と落ち着きが感じられます。
茶室や水屋や日本庭園が備えてあり、現在茶道部の活動場所となっています。
茶道部の活動は、後日紹介します。

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歡(かん)
敷地内を散策していると、いろいろなものを発見することができます。
この像は、恵幸会館付近にひっそりと佇んでいます。
探してみるのも良いと思いますよ。ヒントは、写真右手の風景です。
すぐには発見できません。

これは日本を代表する彫刻家である北村西望(きたむらせいぼう)氏の作品です。
タイトルは「歡(かん)」と記されています。

この作品は、昭和12年に本校に寄贈された彫刻で、童の何とも言えない満面の笑みが観る人すべての心を和ませ、笑顔にしてしまうようなすばらしさを感じます。
学校全体が、このような笑顔で覆われますように・・・・・・。

北村西望氏の作品には「平和祈念像」(長崎市平和公園)「山縣有朋像」(萩市中央公園)等があります。

平和祈念像のイラスト


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明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)之碑
「明治天皇駐蹕之碑」を紹介します。
「明治天皇駐蹕之碑」は明治40年11月19日、明治天皇が伊讃野(いさの)に行幸の折に陸軍大演習が行われ、その際に天皇が座っていたところに記念碑として大正4年に建立されたものです。

当時は、清浄な所として教師も生徒も敬礼する習慣があったそうです。
この碑は、当時校内のほぼ中心に位置していましたが、昭和47年新校舎建築の際に現在地に移されました。
 写真をタップすれば、『100年誌』
「明治天皇駐蹕之碑」にジャンプします。
注釈
伊讃野(いさの):当時、現在地(岡芹)は伊讃村でした。下館の町中からかなり離れた八丁台の畑の地なので伊讃野と呼ばれていました。国道294号と国道50号バイパスの立体交差付近には、火薬庫もありました。
行幸(ぎょうこう):
天皇が外出すること
駐蹕(ちゅうひつ):天子の行幸の途中一時のりものを止めること。その地に滞在すること。


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校歌制作秘話
校歌制作秘話
本校の校歌が制定されたのは、昭和2(1927)年のことです。
このとき国語教諭だった高山まさ(旧姓武藤)先生は、校内で募集した歌詞に思わしいものが集まらないと聞き、「いささか心に責められるものがあったので」、思い立って一晩で2つ作り上げたたそうです。
その中の1つが、職員会議の無記名投票の結果、絶対多数で当選し校歌となりました。
作曲は、音楽教諭であった千本延隆先生が担当しました。
千本先生は『60周年記念誌』で、「いたずらに新しきを求めることはやめて、地味でよい、落ち着いたこの歌詞にふさわしい感じを出そうとした」と述べています。
また、校歌の歌詞には当時の様子がうかがえる一節があります。
3番の「明治の帝御足とどめし」と言う歌詞です。
当時は、丁度現在の下館小学校跡付近が「明治天皇下館行在所」であり、近くに練兵場があったそうです。その行在所に向かう途中、下館二高の地でお休みされたので、現在も敷地内に『明治天皇駐蹄(ちゅうひつ)之碑』があります。まさに「御足(みあし)とどめし」なのです。

楽譜の作詞名について
 この楽譜のなかに「あれっ」というところがあります。作詞をした高山まさ(旧姓武藤)先生の標記です。本校校歌作曲家でもあり本校教諭千本延隆先生が記した楽譜には、作詞が武藤まさ子となっています。『60周年記念誌』を読み返したところ、高山先生と千本先生が式典招待の御礼としての投稿がありました。そこには「高山まさ」とありました。このころ、女性に「~子」名がはやった時代でもあり、千本先生が多分、誤表記してしまったのだと思います。たぶん。

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