6章

第6章
新時代の幕開け ~
新しい取り組み~

 
   
 (1)男女共学化

   (4)推薦入試制の導入

 (2)進学体制の整備

   (5)多岐にわたる家庭クラブ活動

 (3)ブライトホールの建設

   (6)学校行事



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第6章 新時代の幕開け ~新しい取り組み~

(1)男女共学化

 新しい平成の時代に入って、本校も大きな変化を遂げた。その最も顕著なものは「男女共学」である。
 
 男女共学は、戦後、民主教育の出発点において、小学区制や総合制とならんで高校教育の三原則であった。第4章で述べたように、本校でも昭和25(1950)年に男子生徒が2名入学していたが、それ以後男子生徒の入学はなく、男女共学が定着することはなかった。平成4(1992)年度に至っても、いわゆる「女子高」は茨城県内に13校あった。
 
 昭和54年、全生徒を対象に男女共学についてのアンケートを実施、「恵幸」にその結果が発表されている。これによると、全体ではほぼ6割の生徒が共学に反対しているが、学年が進むにつれて反対意見は減少している。共学賛成の意見としては「共学の方が自然である」「生活に活気が出る」などがあり、反対の意見としては「伝統を守りたい」「勉強が落ち着いてできる」といったものが並ぶ。
 そのころ教職員側でも男女共学化についての論議がなされていた。昭和59年「7人委員会」が開かれ、共学化が議題とされたのである。このとき近隣高校の生徒の男女比を調査して、下館市を中心とする近隣の男子生徒が外部に流れている実態を明らかにしながら、男子生徒を受け入れる必要性を訴えた委員もいたが、全教職員の意見とはならなかった。このように、本校でも生徒、教職員の間で、男子生徒を受け入れるべきだという論議がしばしばなされたものの、共学を実現するまでには至らなかった。

 昭和63年6月に再び「恵幸」は「女子校か共学校か」という記事を載せた。このとき全生徒に行ったアンケート結果は、1年生では79%が共学に賛成しているが、2、3年生では逆に70%が共学に反対している。出版委員会はまとめで「1度ぐらいは女子だけの生活を送ってみるのも貴重な体験ではないでしょうか」と結んでいる。
 
 この年、下館のタウン誌『つくばの』に座談会「どうする?共学、下館二高の場合」という記事が掲載された。座談会の参加者は共学化を求めて運動している父親、中学校長、本校教諭、母親たちであり、「男子を(下館市から)外へ出してはだめだ」と、全体的には本校に共学を求める内容になっている。このように当時の下館市では次第に本校が共学化することを求める空気が強くなっていた。しかし、本校の中では議論はほとんど進まなかったし、中学校での学校説明会でも、本校校長が「男子の受け入れはない」と述べることさえあった。
 しかし、平成4年11月、男子生徒を受け入れることに対して、下館市内の4中学の校長より申し入れもあり、5年度から男子生徒を受け入れる旨校長から明らかにされ、本校でも共学化が実現することになった。翌5年2月「男子生徒受け入れ準備委員会」が発足、トイレ、制服、校章などについて検討が始められた。
 
 こうして本校は平成5年4月に新入生396名のうち53名の男子生徒を43年ぶりに迎え、共学校としての一歩を踏み出すことになった。新聞各紙はもちろん、テレビ局からの取材もあって、大きな反響に本校の教職員のほうが驚かされた。
 
 県内で本校をはじめ下妻二高など7校の女子高が共学化していった最大の理由は、県教委が「不均衡是正に加え、特色ある高校づくりや学科改編の観点から、二高系高校の活性化に取り組み」(『いばらき』平成5年2月23日)各校に働きかけたことにある。
 
 男子生徒入学を前に、まず仮設の男子トイレが特別教室棟の北西に建設され、次いで教室棟の男子トイレ新築工事が始まった。翌6年8月までには特別教室棟に男子トイレ、体育館東に男子更衣室が完成、共学校としての体裁を整えていった。
 
 男子生徒はその後、平成6年に94名、7年に114名と順調に増加し、10年には142名に達した。11年は、募集定員が9クラスから1クラス減じ320名となったが、119名を受け入れており、すでに本校が男女共学校として定着したといっていい。ただこのように早く定着したということは、本校が地域的にみて、かなり以前から男女共学校であることを要請されていたということであろう。

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第6章 新時代の幕開け ~新しい取り組み~

(2)進学体制の整備

 本校への男子生徒の入学は茨城県の高校多様化の流れの中で実現したものであったが、その背景には高校進学希望者の普通科志向という全体的な趨勢があり、この地方の高校の普通科の男子生徒の枠の拡大が必要とされていたことがあった。生徒にしてみれば、高校入試の段階で実業系の学校を選ぶことは、その段階で職業選択の幅を狭めることになるのではないかという懸念もある。より広い可能性を期待して入学してきたほとんどの生徒達は、進路希望調査において上級学校への進学を希望している。このような実態を受けて、本校でも進学体制の整備、強化が図られていくようになる。

 本校では従来、2年次でABの2コースに分け、Aコースは総合的学習に家庭科の被服、食物、保育を履修し、Bコースは家庭一般以外の家庭科の科目や芸術や体育の単位数を減じて、国語、数学、英語の単位数を増やし、大学進学を考慮に入れたカリキュラムとなっていた。

 平成5年、初めて男子生徒を受け入れた年は、このコース制に手を入れることはせずに、2、3年次で男子生徒は保育のかわりに英語を、被服・食物のかわりに日本史・世界史のいずれかと数学(代数・幾何)を履修させるなど、カリキュラムの一部変更で対処した。またAコースで初めて2年次から物理を履修できるようにした。

 平成6年度の入学生から、指導要領の改定とも重なって大きな変更を行った。2年次からABCの生徒の進路希望に沿った3コース制を採用したのである。Aコースはこれまでのコースの考え方をほぼ踏襲して総合的な学習を重視し、Bコースでは2年次から数学を全面的にカットして国語、英語を重視した文系コースとした。Cコースでは理数系を重視し、3年次に進路希望によって選択できる科目を増やし、理数系、医療薬学看護系の進路希望に対応できるようにした。


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第6章 新時代の幕開け ~新しい取り組み~

(3)ブライトホールの建設

 茨城県は平成に入って、中堅的な進学校に学力の向上と生涯学習の振興のための学習施設として「ブライトホール」の建設をはじめた。本校には県西地域としては最初のブライトホールが建設され、平成6年7月に竣工した。鉄筋2階建の総面積579㎡で1階に大学習室(124.40㎡)と中学習室(62.51㎡)の2つの学習室の外、16畳の和室や準備室、シャワー室などを備え、2階には多目的ホール(114.78㎡)や談話コーナーなどがある。
 
 管理は進路指導部があたり、使用規定が作成され、それに基づいて生徒の利用に供せられている。使用時間は平日放課後の15:30から17:00までとし、4月から10月までは最長19:00まで、11月から3月までは最長18:00までとしている。
 
 エントランスホール(左)1階学習室 選択授業にも使われている(右)
 生徒達には自学自習の場として活用されており、大・中学習室では閉館になるまで多くの生徒達が学習している姿を見ることができる。特に中学習室は机上だけではあるが隣席と仕切られているために希望する生徒が多く、放課後はたちまち満席になる。また、教師たちが自主的にはじめた早朝課外などにも使用されている。
 
 1階中学習室(左)  1階和室(右)
 このように男子生徒の受け入れを一つの刺激としながら、本校は進路指導部を中心に進学体制を整えていったが、地域的に進学などに対する刺激や意識が少ないこともあって、成果をあげるにはそれなりの工夫も必要であった。そのために課外授業を充実させ、模擬試験の実施回数を増やすなどの方法がとられた。
 
 2階多目的ホール(左)  階段から恵幸会館を見る(右)
 自学の習慣化をはかるために、県内の宿泊施設を利用しての合宿課外も実施された。また、それぞれの生徒の自覚を促す意味もあって、個別的な面接指導を行うとともに、保護者の意向にも配慮して、保護者を含めた三者面談も重視した。保護者に対する働きかけとして各学年毎に進路講演会や進路ガイダンスなども実施している。

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(4)推薦入試制の導入

 茨城県における推薦入試制度は、昭和53(1978)年度に農業に関する学科に導入されて以来、高等学校の多様化の一つとして平成2(1990)年度からは普通科を含めたすべての学校、学科で実施できるものになり、一層の拡大が図られていた。
 
 推薦入試制度は中学生に学校や教師に対する忠誠心を煽り、中学校教育を混乱させるものだという意見や面接などで適性は測りがたいといった反対論がある一方で、生徒減少期を迎えて「生き残り」のために「よい生徒」を集める必要があるとか、多面的な生徒の能力を評価するのにはよいといった容認意見や、中学の部活動でよい成績を持った生徒を入れたいといったより積極的な意見もあった。しかし、本校全体としては推薦入試制度の必要性は感じられてはいなかった。
 
 本校で推薦入試制度が初めて検討されたのは平成2年のことであったが、教職員の多くの反対で導入は見送られた。「本校では必要性は少ない」というのが、反対意見の多くを占めた。しかし、平成3年秋に校長の意向を受けて、「推薦制度調査委員会」が発足した。委員会は「推薦制度について具体的、客観的なデータを提供すること、推薦制度について判断したり原案を提示することは一切しない」として調査活動を始め、その結果は、翌4年7月報告資料にまとめられ職員会議に提出された。しかし、前年度と同様の理由で、その職員会議での推薦制度の導入の決定は見送られることとなった。5年においても、6年においても、推薦制度の導入について検討はなされるものの、教職員からの反対は根強く、導入は見送られ続けた。
 
 ところが、平成7年、導入していない学校の存在を黙認してきた茨城県教育委員会が方針を変更、翌8年度から、県下の全校・全学科において推薦入学を実施するように通達を出してきた。茨城県教育委員会の方針は各校が個性的で多様な経営努力を払い、各校間に強い競争力が働くことによって、県全体の高等学校の各分野での活性化を促そうとするものであった。
 
 こうした経過で、推薦入試を実施することが決定し、以後は、内規等の検討に入った。基本方針としては「本校に対する明確な目的意識を持ち、かつ、本校での学習に対応できる学力を有し、意欲的で個性豊かな生徒に推薦入学の機会を与え、一人一人の学力と個性の伸長を期するとともに、本校の教育活動の一層の活性化を図る」ものとした。推薦入学者は募集定員の10%(36名)程度に止め、面接・口頭試問(英語および数学)・作文(後に小論文)を課し、それらの結果をもとに総合的に合否を判定することが10月中には決定した。

 平成8年2月、本校における第1回の推薦入試が行われた。受験者数は73名にのぼり、内40名を合格とした。以後、9年では受験者数68名、内合格者数38名、10年では受験者数67名、内合格者数36名であった。
 
 部活動推薦については、学力推薦が始められて以後、しばしば話題にはのぼっていたが、平成10年度に特活指導部からの原案が職員会議で可決され、11年の入学試験から募集定員の5%程度で実施されることとなった。この年度の推薦入試では受験者数79名(内部活動推薦18名)、合格者数48名(内部活動推薦16名)であった。
 

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第6章 新時代の幕開け ~新しい取り組み~

(5)多岐にわたる家庭クラブ活動

 第4章で詳述した家庭クラブとホームプロジェクト(H・P)は現在も続いている本校の活動である。現在の家庭クラブは「家庭一般」の履習者全員が会員で、会員は必ずH・Pをやらなければならないことになっている。本校も平成5(1993)年度から実質的な男女共学校となったため、男子の家庭クラブ員が誕生し、H・Pを行うようになった。今後は男子の目からみた改善点が出てくることを期待している。
 
 家庭クラブの現在の特徴は、活動の中心が福祉活動で、しかも多岐にわたっているということである。独居老人給食サービス、車椅子体験、花いっぱい運動、老人ホーム訪問、歳末助け合い募金協力、老人施設ひな祭り協力など隔広く活動している。
 そのなかでも中心となるものは、独居老人給食サービスである。これは昭和63(1988)年に始まり、月1回、土曜日の放課後を利用して、ひとり暮らしのお年寄りに料理を届けるというサービスである。このサービスを行うために、老人向けの献立を実習した後、それを試食し、さらに献立を検討し、調理上の工夫をするということをくり返している。
 
 この活動は、月1回程度出される手書きPR紙「家庭クラブだより」で参加者を募るという形をとっているが、希望する生徒は非常に多い。それだけボランティア活動として根づいているのである。
 
 この成果として、平成3年の第39回H・P熊本大会に関東代表として出場、「高齢化社会に生きる私達」というテーマで、老人食の研究と改善について発表を行った。
 
 家庭クラブの顧問教師達は、本校のボランティア活動は身近で、気軽に始められ、人から押し付けられたものでなく、「自ら行動する」「喜んで行動する」ことが特徴で、今後も楽しく長く続けることができるだろうと考えている。
 
 また、昭和63年と平成9年には、ともに茨城県高等学校家庭クラブ連盟の会長校として事務局を担当した。県の家庭クラブ活動の中心となり、研究発表大会等の企画・運営に当たった。

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第6章 新時代の幕開け ~新しい取り組み~

(6)学校行事

 現在、各行事が整理され、以前に比較して生徒が楽しめるものが少なくなった。体育祭は恵幸祭と交互に行われていたが、体育祭を嫌う生徒が増え、平成に入ってから全く行われなくなっていた。しかし、男子生徒が多くなるにつれ、再開の要望が強くなり、平成11(1999)年9月、体育祭が復活した。一方恵幸祭は、体育祭が中止されてからも、1年置きに行われていたが、平成2年からは進学対策の一環として、その開催時期を9月にずらすことになった。
 現在の行事の中でも、球技会は本校の生徒達にとって楽しみな行事の一つであり、球技に、応援に夢中になって若さを燃焼させている。競技に熱中するのは当然だが、球技会のためTシャッなどの服装を揃え、そこに各クラス思い思いのキャッチフレーズや絵などを書いてクラスの団結という意志統一を図ろうというのが昨今の生徒達である。また、そのため応援用具を作るクラスもある。

 こうした熱心さに応えて、各学年総合1位から3位までのクラスに、賞品として特製大福が生徒会から贈られている。順位によって大きさが違っていたり、イチゴが入っていたりする。クラスの合言葉に「大福を食べよう」というのがあるほど、球技会の賞品として定着している。この大福の歴史は古く、昭和47、8年頃に始まったという。これは当時体育教諭であった杉山昭一郎の発案であった。それまではノートやバッジなど学校の賞品として普通のものが出されていたが、杉山が「大福を出そう」といったことから決まった。教師の中には賞品が食べ物ではと反対するものもいたようだ(元本校教諭佐藤尋美談)。大福と球技とのミスマッチがかえっておもしろく、生徒の間でも評判が良かった。大福はこれからもずっと賞品として続いていくに違いない。

 また球技会では各学年1位のクラスにのみ、同窓会からフラワーアレンジメントがお祝いとして贈られている。


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